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藤原 衛(ふじわら の まもる、延暦18年(799年) - 天安元年11月5日(857年11月24日))は、平安時代前期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の十男。官位は正四位下・右京大夫。 == 経歴 == 2歳で母を亡くしたが、衛が5歳の頃に母親というものはなぜ遅かれ早かれ死んでしまうものなのかと問い、母親を愛慕す様子は人々を感動させた。これを不思議に思った父・内麻呂は衛を嫡嗣に立てたという。7歳で学問を初め、弘仁7年(816年)18歳で文章生試に及第したことから、周囲の人々から前漢の賈誼に比されたという。〔『日本文徳天皇実録』天安元年11月5日条〕 中判事・大学助を経て、弘仁13年(822年)24歳で従五位下に叙爵するが、叙爵時の年齢としては、公卿に昇った他の兄弟(真夏:30歳、冬嗣:32歳、愛発:29歳、助:31歳)と比べ特に早かった。 翌弘仁14年(823年)遠江守に任ぜられる。赴任前の弘仁11年(820年)に遠江・駿河両国では新羅人による蜂起事件が発生していたが、衛は穏やかで落ち着いた統治を行い、百姓達も喜んだ様子であったという〔。天長4年(827年)朝廷は地方官を巡察するために全国に巡察使を派遣し、使の報告に基づいて良吏に対する叙位を行うが、衛も遠江守としての統治を賞されて従五位上に叙せられている。帰京後は木工頭・右少弁・式部少輔を歴任するが、式部少輔としては、不法を見つけた場合は高貴な身分の人の親戚であっても避けることなく評論したことから、淳和天皇にその才器を認められたという〔。天長9年(832年)正五位下、天長10年(833年)従四位下と淳和朝末にかけて昇進を重ねた。また、淳和朝では『令義解』の編纂にも参画した〔『令義解』序文〕。 承和元年(834年)式部大輔兼伊予守、承和7年(840年)従四位上・蔵人頭〔『蔵人補任』〕と仁明朝に入っても順調に昇進し、またこの間の承和7年(840年)5月の淳和上皇の崩御に際しては装束司を務めている。承和9年(842年)蔵人頭を解かれ大宰大弐として九州への下向を命じられる。これは新羅国内での張宝高の反乱が発生したり、張宝高と文室宮田麻呂の密貿易が発覚する中で、朝廷がより直接的に筑前国府・大宰府を掌握するために、遠江守在任時の新羅人鎮撫の実績を買われて衛が任ぜられたものと想定される〔山﨑雅稔「承和の変と大宰大弐藤原衛4 条起請」『歴史学研究』751号、2001年7月〕。この人事に対して、衛は自分の力量では大宰大弐の任務に堪えないとして、今回の人選が誤りであること、なお天皇の身近で仕えたい旨を懇願する内容の上表を行うが、結局認められず衛は大宰府に赴任した〔。 衛は赴任して間もなく、大宰府管内の統治に関連して、以下四条の起請を奏上した〔『続日本後紀』承和9年8月15日条〕。 #食糧が不足しており、不測の事態が発生した場合に対処ができないことから、新羅人の入国を一切禁止すること。 #地方官としての交替事務が完了したが、官有物の欠損があり解由状を得ることができない五位の官人が、格旨〔『類聚三代格』巻5 承和15年5月14日条太政官符 所引弘仁13年8月25日太政官符〕を理由に管内に留まって農業や商業を妨げ不当な利益を得ようと謀ばかりする一方、一向に欠損した官有物の補填を行わない実態があるため、交替した官人を速やかに帰京させること。 #管内の官舎について破損が少なくないことから、常に浪人を動員して修理してきたが、年来太政官符により浪人を他の役務に就かせることが多くなっている。ついては、浪人を他の役務に動員せず、専ら管内の官舎の修理に用いること。 #管内は辺要の地であることから、外国に対して警戒を行うために、延暦年間に特別に法を定めて開田を禁止しているが、年来開田が頻繁に行われているため、延暦3年4月26日の太政官符により、改めて開田を一切禁止すること。 上記に対する朝廷の回答は以下であった(3番目と4番目は無条件に許可された)。 #朝廷の徳が遠方へ及んで、外蕃の者が帰化しようとしているところを、完全に入国禁止とするのは、仁に似つかわしくないやり方である。漂流してきた者へは食料を与えて放還せよ。商売のために渡来した者は自由に交易させ、終わったら速やかに退去させよ。 #帰京は許可するが、不与解由状を作成する際に、明らかに官有物の欠損がある場合は填納させることとし、填納した物品を記録して言上させよ。 承和14年(847年)大宰大弐の任期を終えて帰京するが、以降昇進は停滞した。嘉祥2年(849年)渤海使節が入朝した際、節会において使節に対する応対之中使として陪席し、使節にその儀範を賞賛されている〔。 嘉祥3年(850年)弾正大弼に任ぜられるが、王侯や高位の者でさえも恐れて憚るほどであったという〔。仁寿元年(851年)勘解由長官兼加賀守に転任し、斉衡元年(854年)13年ぶりに昇叙され正四位下となる。天安元年(857年)6月に右京大夫に転じるが、同年11月5日卒去。享年59。最終官位は右京大夫兼加賀守正四位下。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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