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袁安碑(えんあんひ)とは、中国の後漢代に司徒を務め、汝南袁氏の始祖となった袁安の墓碑。ただし当時の刻であるかは諸説あり、もしそうであれば隷書が公式書体であった漢代にあって、極めて珍しい篆書による碑ということになる(後述)。 碑の現物は現在河南省博物館に所蔵されている。 ==被葬者と建碑の事情== ''袁安の項も参照のこと'' 碑文によれば、袁安は汝陽(現在の河南省)の人で、孟子の易を学んだ人物であった。永平3(60)年に除郎中となったのを初めとして、翌年4年には除給仕謁者となった。永平5(62)年には地方官に転出して東海陰平長となり、10(67)年には東平任城令、13(70)年年末には楚郡太守となった。 その後、永平17(74)年に再び中央に戻ることになり、河南尹となった。建初8(83)年には太僕、元和3(86)年には司空、翌年には司徒となって最高位まで昇りつめ、和帝の元服式にも呼ばれたという。そして永元4(92)年3月に死去した。享年不明。 碑そのものから伝えられる袁安の情報は以上のものだけである。実際には袁安は汝南袁氏の始祖、そして名宰相として著名な人物で、数々の逸話が残っているがそのようなことは一切書かれていない。また、建碑の事情も全く分かっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「袁安碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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