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裴 頠(はい ぎ、267年 - 300年)は、中国・西晋代の政治家であり、思想家。字は逸民。諡は成。本貫は河東郡聞喜県(山西省聞喜県)の名族の出身である。 == 生涯 == 父は裴秀で、鉅鹿郡公。裴頠も父の爵を継承して同郡公となった。王戎の娘を妻とする。 281年、太子中庶子で起家する。その後、恵帝代に国子祭酒、さらに、侍中にまで昇進した。 裴頠は医学や礼楽に精通しており、張華と連携して賈皇后を廃位しようとした。しかし、失敗し、当時の風として老荘思想が盛行する有り様を慨嘆し、「崇有論」を著わして王衍らと議論した。 その後も張華と行動を共にし、趙王の司馬倫が賈皇后に取り入って猟官したのに異を唱え、また、皇太子司馬遹の廃立にも反対したため、賈皇后の不興を買い免職された。 司馬倫が賈皇后を打倒した後、以前の宿怨もあり張華と一緒に弑された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「裴ギ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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