|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 西 : [にし] 【名詞】 1. west
西晋(せいしん、拼音:Xījìn)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した王朝として君臨した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。 == 歴史 == === 司馬氏の台頭 === 司馬氏は河内郡の名族で秦の滅亡後に項羽や劉邦と共に活躍した殷王司馬卭の子孫を称し、後漢時代には既に歴代に郡の長官を輩出していた〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P36〕。司馬防は後漢末期の争乱から台頭した曹操に接近して関係を持ち〔、その長男司馬朗は曹操の重臣として仕えた。司馬防の次男である司馬懿は208年、赤壁の戦いが発生した年から曹操に仕え、曹操の参謀、そしてその嫡子曹丕の世話役として曹操の丞相府で地位を確立していく〔。220年に曹操が死去すると司馬懿は丞相府の司馬としてその葬儀を取り仕切り、曹丕を後漢の丞相・魏王に、そして魏皇帝に上り詰めさせる過程で大きな役割を果たしたことから〔、曹丕(文帝)の信任を得た〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P37〕。226年に文帝曹丕が崩御する直前には、皇太子曹叡(明帝)の後事を託される〔。 曹丕の崩御で政情に不安を抱いた孟達に蜀の諸葛亮から帰順を勧める使者が遣わされて孟達が魏に反逆した際、司馬懿は鮮やかな戦略でこれを鎮圧して蜀の北進を防いだ〔。やがて魏の軍事最高責任者として諸葛亮の率いる蜀軍と対峙し、敗戦もあったが最終的に234年には五丈原で諸葛亮の死を受けて蜀の勢威を挫いた〔〔山本『中国の歴史』、P92〕。238年には呉と連動して反魏的行動をとっていた遼東の公孫淵を討ち、魏における勢威を不動のものとした〔。直後に明帝曹叡も崩御し、その直前に幼い曹芳を魏宗室の曹爽と共に託された〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P38〕。しかし、曹爽との間に確執が生じ、司馬懿は一時的にその実権を奪われた〔。 249年に司馬懿はクーデターを起こし、曹爽一派を誅滅した(高平陵の変)〔。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握する。2年後の251年8月、司馬懿は死去した〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P40〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西晋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|