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西秦(せいしん、拼音:Xī-qín、385年 - 431年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑乞伏部の乞伏国仁によって建てられた国。 == 歴史 == === 建国期 === 河西・隴西地方に居住していた西部鮮卑の乞伏部は三国時代に高平川流域(現在の寧夏回族自治区中部)に居住していた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P117〕。その後、苑川・麦田(現在の甘粛省靖遠県)を経て〔、4世紀中頃には乞伏司繁に率いられて度堅山(現在の甘粛省靖遠県)に移り、遊牧をして生活を営んでいた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P118〕。しかし前秦の苻堅・王猛らによる華北統一の波が乞伏部にも及び、371年には前秦の益州刺史王統の攻撃を受けて乞伏部は降伏し、乞伏司繁は長安に送られて苻堅より南単于に任命された〔。373年に鮮卑の勃寒が隴右を犯したため、苻堅は乞伏司繁に命じてこれを討伐させ、そのまま勇士川(現在の甘粛省楡中県)を領することになった〔。376年に乞伏司繁は死去し、子の乞伏国仁が跡を継いだ〔。383年の淝水の戦いでは乞伏国仁は前将軍として従軍を命じられていたが、その直前に乞伏国仁の叔父が隴西で反乱を起こしたため、苻堅は乞伏国仁に討伐させるため引き返させた〔。この戦いで前秦軍が東晋軍の前に大敗し、叔父から自立を説得されていた乞伏国仁は隴西にそのまま留まって諸部を召集し、10万余の兵力を有するようになった〔。 385年8月、苻堅が後秦の姚萇により殺害されると、9月に乞伏国仁は大単于を自称し、建義と改元して勇士城に遷都して独立した〔。これが西秦の起源である〔。ただし西秦は前秦に叛旗を翻したわけではなく、あくまでその服属下に従属していた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西秦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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