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諸葛 誕(しょかつ たん、? - 258年)は、中国三国時代の魏に仕えた政治家・武将。字は公休。徐州琅邪郡陽都県の出身。呉の諸葛瑾・蜀漢の諸葛亮兄弟の族弟(遠縁の従弟、はとこ)にあたる〔夏侯玄と仲が良かった事や、諸葛靚が晋の司馬炎(武帝)と幼馴染みであった事から、年齢は諸葛恪や司馬師と近かったと思われる。〕。諸葛誕は諸葛珪の末子という説もある〔『歴代神仙通鑑』より。実際には、諸葛珪は諸葛亮が幼い時に亡くなっており(清の張澍『諸葛忠武侯文集』故事諸葛篇が引く『雜記』によると、諸葛珪の没年は187年と記されている)、また諸葛誕は諸葛玄、諸葛瑾、諸葛亮、諸葛均らと共に後漢末の戦乱を避けて揚州に移り住んでないので、諸葛誕が諸葛珪の近親である可能性は低い。〕。 ==生涯== ===魏の重鎮として=== 『世説新語』によると、若き諸葛誕が仕官した時に「蜀漢は其の竜を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」と言われた。諸葛亮を竜、諸葛瑾を虎、諸葛誕は狗に喩えられた。ここでの「狗」は「功狗」、「功ある者」の意味で、つまり彼への賞賛であり、魏・呉での名声は高かったという。〔《世說新語.品藻第九》箋疏--李慈銘云:「案誕名德既重,身為魏死,忠烈凜然,安得致此鄙薄?蓋緣公休敗後,司馬之黨,造此穢言,誣衊不經,深堪髮指。承祚之志,世期之注,削而不登,當矣。臨川取之,抑何無識!」嘉錫案:司馬之黨必不以孔明為龍。此所謂 乃功狗之狗,謂如韓盧宋鵲之類。雖非龍虎之比,亦甚有功於人。故曰「並有盛名」,非鄙薄之稱也。觀世說下文云「誕在魏與夏侯玄齊名」,則無詆毀公休之意亦明矣。〕。また文帝(曹丕)の遠征時に杜畿が船を建造し、試運転している際に風にあおられて船が転覆した時、若き日の諸葛誕も川に転落したが、諸葛誕は溺れながら「杜侯を先に助けてくれ」と言い、結果自身は意識不明となるも岸に流れ着き一命をとりとめ、杜畿は水死している。 中央において尚書令・吏部郎・御史中丞・尚書などを務め、人事には公正で夏侯玄・鄧颺らと仲が良く、共に名声を馳せ「四聰八達(四人の聡明な人物と八人の達人)」と呼ばれるほどになった。諸葛誕らは表面的な華やかさを追い、虚名を集めていたため、蔓延らせてはならないと意見する者があった。これを受けて、明帝(曹叡)から「名声は画餅のようなもので、飢えを満たすことはできない」と批判され(これが「画餅(画に描いた餅、絵に描いた餅)」の謂われである)、このため一度免職させられた。明帝の没後、曹爽が権力を握ると、その下で夏侯玄や鄧颺が政治を掌るようになり、諸葛誕も御史中丞・尚書に復帰した。後に揚州刺史となり昭武将軍に昇進した。この時、文欽は横暴な人物として知られていたが、諸葛誕もやはり不仲であったという。また呉の諸葛壱が魏への投降を申し出た際に、迎えに出陣したが、途中で偽装降伏であり、呉の伏兵が待機していると見抜いて、引き上げた。 曹爽失脚時に鄧颺は誅殺され、夏侯玄も閑職に追いやられた。しかし、諸葛誕は新たに実権を握った司馬懿に引き続き用いられ、251年に謀反を起こした王凌を討伐した際に、鎮東将軍・仮節都督揚州諸軍事に任命され、山陽亭侯の爵位を得た。諸葛誕は、娘の一人が司馬懿の子司馬伷(司馬師・司馬昭の異母弟)と結婚していたため縁戚関係にあり、家同士の付き合いもあった。 司馬師が実権を握った時代には、胡遵・王昶・陳泰・毌丘倹と共に四方の都督として名があがる存在であった。252年、東関の役においては、提案者の一人である胡遵とともに呉の諸葛恪と戦ったが敗れた(東興の戦い)。敗戦の責を取り、毌丘倹と職を交代させられ、鎮南将軍・都督豫州諸軍事に転任した。 255年、毌丘倹と文欽が反乱を起こすと、毌丘倹からの同心の誘いを拒絶しその鎮圧に赴き、司馬師が寿春を制圧すると、鎮東大将軍・都督揚州諸軍事・儀同三司に任命され、再び揚州の守備を任された。また、この混乱に乗じて侵攻して来た呉の孫峻らを撃破し、留賛を斬った。この功績により高平侯に封じられ、三千五百戸の領邑を与えられ、征東大将軍に任命された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諸葛誕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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