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譚 延闓(たん えんがい)は清末民初の政治家・軍人。湘軍(湖南軍)の創始者、指導者の1人。中華民国の初代湖南都督。また、中国国民党、国民政府の指導者の1人であり、国民政府主席もつとめた。旧名は宝璐。字は祖庵、組庵、祖闓、祖安。別号は慈畏、慈衛、無畏。父は、清代末期の政治家である譚鍾麟。 == 事績 == === 辛亥革命前後 === 1904年(光緒30年)3月の甲辰科会試で会元となり、同年4月、翰林院庶吉士として任用された。しかし、同年7月には湖南へ引き返す。1905年(光緒31年)に、湖南省最初の私立中学である明徳学堂の総理に就任した。 1909年(宣統元年)、湖南省咨議局選挙で譚延闓は当選した。さらに議長にも当選し、湖南省の立憲派の指導者と目されるようになる。翌1910年(宣統2年)から、譚は度々上京して、国会の早期開催を清朝中央に求める立憲派の活動に参加した。 1911年(宣統3年)10月10日、武昌起義が発生すると、同月にこれに呼応する新軍の起義が長沙で起きた。それにより22日には湖南都督府が成立し、立憲派により譚延闓が都督の地位に推された。しかし結局、都督、副都督の地位は、革命派の焦達峰、陳作新の手に落ちる。一方の譚は、湖南都督府参議院院長という政務の枢密を握る地位に就き、さらに民政部長に就任して、民政の一切を総攬した。その後30日に、立憲派の画策により、焦、陳の正副都督が殺害され、譚が後任の都督に就任している。 革命派からは譚延闓が再び清朝に寝返るのではと警戒された。しかし実際には譚は革命路線を維持し、混乱する省内情勢の鎮定に努めた。また、清朝の攻撃を受けて苦戦する湖北軍政府を支援し、全国に対しても共和制支持の打電を行っている。さらに同年12月25日の孫文(孫中山)の帰国の際にも、真っ先に歓迎の打電を行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「譚延ガイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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