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谷崎潤一郎 : ミニ英和和英辞書
谷崎潤一郎[たにざき じゅんいちろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [いち]
  1. (num) one 

谷崎潤一郎 : ウィキペディア日本語版
谷崎潤一郎[たにざき じゅんいちろう]

谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年明治19年)7月24日 - 1965年昭和40年)7月30日)は、日本小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。
初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語雅語から俗語方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。

== 来歴・人物 ==
谷崎倉五郎、関の長男として東京府東京市日本橋区に生まれた。弟の谷崎精二は、後に作家、英文学者早稲田大学で教員)となった。
母方の祖父谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立一中に入学することができた。散文漢詩をよくし、一年のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせ、「神童」と言われるほどだった。
1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし第二学年から第三学年への編入試験を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた〔『尋中一中日比谷高校八十年の回想』(如蘭会編、1958年)、須藤直勝 『東京府立第一中学校』(近代文藝社、1994年9月) P.147〕。卒業後、旧制一高に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した。
1908年(明治41年)、一高卒業後東京帝国大学文科大学国文科に進むが後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1909年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風を貫いた。
大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた。
関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に森田松子と3度目の結婚して私生活も充実する。
太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人がモデルとなっている。
同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年1960年から1964年まで6回にわたって選ばれ〔三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年 日本経済新聞2014年1月3日、2014年1月7日閲覧〕〔64年ノーベル文学賞:谷崎、60年に続き最終選考対象に 毎日新聞 2015年1月3日閲覧〕、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた〔谷崎潤一郎と西脇順三郎、ノーベル賞候補に4回 読売新聞 2013年1月14日閲覧〕〔。最晩年の1964年(昭和39年)には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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