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谷鍾秀 : ウィキペディア日本語版
谷鍾秀[こく しょうしゅう]

谷 鍾秀(こく しょうしゅう)は、清末民初の政治家。中国同盟会に所属した革命派の人物。後に、反袁世凱運動にも加わったが、護法運動では政学系の一員として孫文(孫中山)と対立した。国民政府にも参加している。九峰
== 事績 ==

=== 清末民初の活動 ===
清末の優貢で、京試の受験後に知事として任用された。その後、公立京師大学堂に入学する。卒業後の1901年光緒27年)に日本に留学して早稲田大学で学んだ。このときに、中国同盟会に加入した。
帰国後は直隷高等師範学校で教師となる。1909年宣統元年)には直隷省咨議局議員となった。辛亥革命の際には、直隷省代表として南京での中華民国臨時政府創設に参加している。
1912年民国元年)、南京で臨時参議院議員に選出され、統一共和党の結成にも加わった。同年8月に宋教仁国民党を結成すると、谷鍾秀もこれに加わっている。翌1913年(民国2年)、衆議院議員に当選し、さらに憲法起草委員会委員もつとめた。しかし同年に宋が袁世凱の刺客に暗殺され、さらに二次革命(第二革命)でも敗北するなど、国民党は不利な状況下に置かれる。谷はそれでも民憲党を組織するなどして国会で袁に対抗しようとしたが、11月、国会は停会に追い込まれてしまった。
その後、谷鍾秀は欧事研究会に名を列ねるなどした。1915年(民国4年)、上海で雑誌『正誼』、『中華新報』などを創刊した。その翌年に、袁世凱の皇帝即位に反対して護国戦争に参加し、広東軍務院駐滬委員をつとめた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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