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上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。 上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名の長尾 景虎(ながお かげとら)でもよく知られている。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られるとともに「政」の1字を与えられて上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、それまで上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領をも引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。 == 生涯== === 出生から初陣まで === 享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男(または次男、三男とも)虎千代として春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。幼名の虎千代は寅年生まれのために名づけられた。主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり「娘婿の弟」にあたる。当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取った。次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至らなかった。虎千代誕生直後の享禄3年(1530年)10月には上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、為景に反旗を翻す。この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆らだけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応した。越後長尾家は、蒲原郡三条を所領し府内に居住した三条(府内)長尾家、古志郡を根拠地とする古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家に分かれて守護代の地位を争っていた。しかしやがて三条長尾家が守護代職を独占するようになる。上田長尾房長はそれに不満を抱いて、定憲の兵乱に味方したのであった。為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展する。 天文5年(1536年)8月に為景は隠居し、虎千代の兄・晴景が家督を継いだ。虎千代は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされる。実父に疎んじられていたため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。 母親の虎御前は篤い信仰心を持っていたため、虎千代もその影響を受けて信仰に興味を示した。師匠の天室光育からは教養や兵学を学び、虎千代は特に兵学に興味を示した。虎千代は2メートル四方もある城のジオラマを用いて城攻めのシミュレーションを行なう事が大好きで、兵の駒を動かしたり大砲や道具を用いたりと熱中した。このため寺での修行を次第に疎かにするようになり、遂には天室光育から「虎千代殿に坊主は無理です」とまで苦情を言われて寺から帰されてしまった。ただしこの時のゲームが後に用兵術を身に付ける素地になった。 天文11年(1542年)12月、為景は病没したが、敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代達は甲冑を着けて葬儀に臨むほどであった。兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって国政を牛耳る勢いであった。虎千代は天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、9月には晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入る。その目的は中郡(なかごおり)の反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)の揚北衆を制圧することであった。 当時、越後では守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。景虎が元服した翌年の天文13年(1544年)春、晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こした。15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻めよせた。しかし景虎は少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させた。混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功。謀反を鎮圧することで初陣を飾った(栃尾城の戦い)。 === 家督相続・越後統一 === 天文14年(1545年)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こした。秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もった。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させた(黒滝城の戦い)。しかし翌年の天文15年(1546年)2月、秀忠が再び兵を挙げるに及び再び攻め寄せて猛攻を加え、二度は許さず黒田氏を滅ぼした。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。 天文17年(1548年)になると晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになる。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を形成した。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。しかし同年12月30日、守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる。 2年後の天文19年(1550年)には、定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。同年12月、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。不満の原因は景虎が越後国主となったことで、晴景を推していた政景の立場が苦しくなったこと。そして長年に亘り上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家が、景虎を支持してきたために発言力が増してきたことであった。しかし景虎は翌年天文20年(1551年)1月、政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利。さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったこと等から助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳の若さで越後統一を成し遂げたのである。 一方で上田長尾家と古志長尾家の敵対関係は根深く残り、後の御館の乱において、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に加担した。その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至った。 === 第一次〜第三次川中島の戦い === 天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される。 同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。さらに翌・天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再度晴信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣。30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九(てつしゅうそうく)のもとに参禅して受戒し「宗心」の戒名を授けられた。 天文23年(1554年)、家臣の北条高広(きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した(北条城の戦い)。高広は帰参を許される。この間、晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いた。これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。また、裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかず。対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げた。 ところが弘治2年(1556年)3月、景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家・隠居することを宣言し、同年6月には天室光育に遺書を託し(「歴代古案」)、春日山城をあとに高野山に向かう。しかしその間、晴信に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。 弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされていたため出兵が遅れる。雪解けの4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。5月、景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍する。しかし景虎の強さを知る晴信は、深志城から先へは進まず決戦を避けた。7月、武田軍の別働隊が長尾方の安雲郡小谷城を攻略。一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城(あまかざりじょう)を攻撃する。その後8月、両軍は髻山城(もとどりやまじょう)近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いではなかった。景虎は軍を引き上げた。 弘治4年(1558年)、将軍・義輝から上洛要請があり、翌年上洛することを伝える。また『宇都宮興廃記』によれば同年、上野国経由で下野国に侵攻し、小山氏の祇園城と壬生氏の壬生城を攻略、さらに宇都宮氏の宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻めるが、多功城主の多功長朝によって先陣の佐野豊綱が討ち取られると軍が混乱したために景虎は軍を引き上げた。多功長朝率いる宇都宮勢は上野国の白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵国岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦をしている。その翌年の永禄2年(1559年)3月、高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上杉謙信」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Uesugi Kenshin 」があります。 スポンサード リンク
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