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趙 正平(ちょう せいへい)は清末、中華民国の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士。後に南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。字は厚生、厚聖、侯声、後声、夷門。号は仁斎。筆名に南風主人。 == 事跡 == === 清末民初の活動 === 1904年(光緒30年)、浙江武備学堂に入学する。翌年、同学の黄郛らとともに日本への留学生に選抜された。東京振武学校を経て、早稲田大学に入学している。このとき、孫文(孫中山)が結成した中国同盟会に加入した。早稲田大学卒業後に帰国している。 1909年(宣統元年)、柳亜子らが蘇州で組織した南社に加入し、以後、革命派のための文筆活動に従事する。辛亥革命にも革命派として参加し、南京臨時政府兵站総監部参謀長、南京留守府交通局局長、江蘇都督府副参謀長を歴任している。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)に敗北して海外に逃れ、バタヴィア中華学校校長となった。なお、黄興支持派による欧事研究会にも名を連ねている。 帰国後の1918年(民国7年)、省立曁南学校校長となる。1926年(民国15年)、上海で『太平導報』という雑誌を刊行し、当時の浙閔蘇皖贛五省聯軍総司令・孫伝芳のために聯省自治を宣伝した。1928年(民国17年)8月、国民政府により北平市政府社会局局長に任命された。翌年には青島市政府教育局局長に異動している。その後、『復興月刊』という雑誌を創刊している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙正平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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