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ダヤン・ハーン(、 英語:Dayan Khan、1464年 - 1524年)は、モンゴルの第34代(北元としては第20代)大ハーン。長らく分裂状態にあったモンゴル諸部を再統一し、ハーンの権威を回復させた。本名はバト・モンケ(、Batu Möngke)。漢字表記は達延汗。 ==生涯== === 生い立ち === チンギス・カンの末裔として、15世紀当時のモンゴル高原においてハーンになる資格を唯一有する家系と見なされたボルジギン氏に生まれた。しかし、バト・モンケ以前の時代には、後述する政治的混乱のためにチンギス・カン一族の記録や伝承が混乱しており、チンギスからバト・モンケに至る系譜は確実ではない。ただ、傍証やのちの時代の系譜書から、歴史家はバト・モンケが元の世祖クビライの後裔にあたると考えている。 17世紀半ばにが著した『蒙古源流』によると、バト・モンケは、トクトア・ブハ・タイスン・ハーンの次弟であったアクバルジ晋王の嫡子ハルグチャクの息子バヤン・モンケ・ボルフ晋王(ジノン)と、ウルウト部出身のシキル太后(ハトン)の息子と伝えられる。 チンギス・カン以来、モンゴルではボルジギン氏、特にチンギス・カンの末裔を君主に立てるチンギス統原理に基づき、代々チンギスの末裔がハーン位についていた。しかし、16世紀に砂北で勢力を強めていたオイラト部のエセン・タイシがチンギス裔の多くを皆殺しにしてハーン位につくなど、一時期チンギス統原理は崩れた。 1452年にエセンが義兄であるトクトア・ブハを殺害してモンゴルの王族を皆殺しにしたとき、バヤン・モンケは母セチェク妃子がエセンの娘であったために殺害を免れた。バト・モンケはその息子であり、チンギス・カンの血を引くほとんど唯一の男子となった。しかし、幼くして里子に出されたともいわれ、そのため王族ではあったが政治的には全く注目されていなかったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダヤン・ハーン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dayan Khan 」があります。 スポンサード リンク
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