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鄭撥[ていはつ]
鄭撥(ていはつ、朝鮮読み:チョンバルまたはチョンパル、1553年 - 1592年)は、李氏朝鮮時代の武官。字は子固。 == 生涯 == 鄭明善の子、25歳で科挙の武科に合格。 文禄の役では、1592年4月12日(和暦)に日本軍が釜山沖合の絶影島に停泊し、偵察を行って翌日の上陸を決定した。一方、釜山鎮を守備する釜山鎮水軍僉使(水軍の武官。略称、釜山僉使)だった鄭撥は、戦船3隻を率いて日本艦隊を発見し、ただならぬ気配に釜山鎮城に戻った。鄭撥は日本軍の手に渡らないように軍船を沈め、軍民を動員して抗戦準備を命じた。 翌13日、予定通り釜山に上陸した小西行長や宗義智などの日本軍は、書状を以て仮道入明(明へ行くために道を貸して欲しい)を要求したが、鄭撥は拒絶し、午前6時頃から攻城戦が始まった(釜山鎮の戦い)。黒色の甲冑を纏った鄭撥は激しく抵抗したが、日本軍の攻撃に抵抗しきれず、部下より脱出を薦められた鄭撥は拒否し、釜山鎮城は昼頃陥落した。釜山鎮城南門に登った鄭撥は、最後まで戦えと号令する最中に日本軍の銃弾に当たり、戦死したともいう。(異説あり) 死後、李氏朝鮮は忠烈公の諡号を賜り、左賛成(チャチャンソン)を追叙された。1607年、もともと葬られていた宋象賢(東莱城城守将)らとともに東莱の忠烈祠に祀られた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭撥」の詳細全文を読む
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