|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 鈴 : [すず] 【名詞】 1. bell ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber
鈴木 啓太(すずき けいた、1981年7月8日 - )は、日本の元プロサッカー選手。静岡市清水区出身。ポジションはMF。夫人はファッションモデルの畑野ひろ子。同じくサッカー選手の水野晃樹は従弟〔2007年5月3日に行われたJ1第9節ジェフユナイテッド市原・千葉戦で鈴木は普段のプレースタイルに似つかわしくない鮮やかな股抜きドリブルを披露したが、その際に股抜きをされた選手は水野だった。〕。日本プロサッカー選手会元福会長。元日本代表。マネジメントではセント・フォース所属。血液型はO型。 == 来歴 == 小学生時代は清水FCに所属し、1993年の第17回全日本少年サッカー大会で準優勝を経験。また、中学時代は東海大一中(現在の東海大学付属翔洋中学校)の一員として全国中学校サッカー大会優勝の原動力となった。 東海大翔洋高校卒業後、2000年に浦和レッドダイヤモンズに加入し、天皇杯でプロ初出場。翌年のヴィッセル神戸戦でリーグ戦初出場を果たし、そのままレギュラーに定着。2002年からはアテネオリンピックを目指すU-23日本代表にも招集されるようになり最終予選ではキャプテンも務めるも、監督であった山本昌邦が複数ポジションをこなせるユーティリティプレイヤーを好んで選出したため、本大会には選出されなかった。 2006年、日本代表監督にイビチャ・オシムが就任。A代表に初招集され、同年8月9日のキリンチャレンジカップ、トリニダード・トバゴ戦で初出場を果たし〔、以後オシムジャパンでは唯一全試合先発出場を続けた。 また、クラブでの活躍により2006年、2007年と2年連続でJリーグベストイレブンに選出される。2008年にはサッカー担当記者選出の日本年間最優秀選手賞を受賞している。 2008年は前年まで浦和、日本代表で過密日程の中、フル稼働した疲労が溜まった影響か、扁桃炎の発症や度重なる負傷に苛まれ、苦しいシーズンを送った。また、代表でも扁桃炎で離脱している間に長谷部誠にボランチの定位置を奪われ、病気から復帰した後も本来のプレーを取り戻せないことも相まって2008年6月以降は日本代表に招集されていない。 2009年は山田暢久に替わり、チームキャプテンに就任。主に阿部勇樹とボランチでコンビを組み、大きな怪我も無くほぼフル稼働し、浦和の中盤を支え続けた。また、9月19日J1第26節川崎フロンターレ戦では自身2年振りとなるゴールも記録した。 2010年も引き続きチームキャプテンに就任。しかし、細貝萌の台頭などもあり、序盤は阿部勇樹、細貝萌のボランチのコンビが機能していた影響で、自然にベンチを温める機会が多くなった。 8月末に阿部がレスター・シティFCに移籍した影響でボランチの層が薄くなったものの、ここでも怪我などが重なりレギュラー奪取とは行かず、最終的に公式戦出場試合数は前年の約半分程に減った。 2011年、ゼリコ・ペトロビッチ新監督からチームキャプテンに指名され〔主将は鈴木啓太、副将に平川忠亮|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト 〕、これで3年連続でチームキャプテンを任される形となった。この年はプレシーズンマッチから先発で起用されたが、開幕戦の神戸戦で退場処分を受け、東日本大震災中断明けの第7節名古屋グランパス戦は出場停止となり欠場。その後、出場停止明けの数試合は山田暢久にボランチのポジションを譲ったが、程なくしてレギュラーに復帰。監督が堀孝史に交代後は4-1-4-1システムのアンカーのポジションを任され、J1残留に大きく貢献した。 2012年は阿部勇樹が復帰したことで3年続いたチームキャプテンを譲る形となった。怪我も無く、阿部と共にほぼ全試合に出場した。天皇杯2回戦ヴォルカ鹿児島戦で、後半開始から阿部勇樹センターバック、鈴木啓太ボランチで入ったものの、攻守にバランスが取れなかったことからポジションチェンジが行われ、公式戦で初めてセンターバックに入った。 2013年はJリーグでは、那須大亮の加入もありゲーム終盤では、トップ下に入る試合が多い。また、ACLでは那須がボランチ出場するためベンチスタートが続いたが、永田充の怪我で那須のセンターバック起用によってACLでもボランチ出場している。 2014年は序盤スタメン出場が続いていたが、青木拓矢が怪我から復調すると徐々にベンチスタートが多くなっていった。 中盤からは再びスタメン出場続けていたが、Jリーグ第31節横浜F・マリノス戦の試合途中に突然体調不良に見舞われハーフタイムで交代した。その後の診断結果で不整脈と診断されドクターが付き経過を観察していたが、状態が安定して来た為第34節名古屋グランパスでベンチ入りし後半86分に途中出場したものの、皮肉にも自身のパスミスからカウンターを喰らい永井謙佑に逆転ゴールを奪われ〔なぜ浦和は同じ負け方を繰り返す?最古株・鈴木啓太に見えた“壁”。 NumberWeb 2015年2月27日〕、逆転負けを喫してしまった。また、ACLを制した2007年も30節に連覇の可能性がありながらラスト5試合全て勝てず逆に9連勝で終えた鹿島アントラーズに逆転優勝された時も在籍していたので、阿部と平川と共に2度の大逆転V逸を味わった一人となってしまった。シーズンオフに入り不整脈の手術を受ける事を決断したが、オフにもう一度精密検査を受けた結果手術の必要が無い事が分かった。 2015年10月20日に自身のFacebookで16年在籍した同クラブを退団することを発表した。同年は怪我の影響などもありリーグ戦をわずか4試合の出場にとどまった。11月22日、明治安田生命J1リーグ2ndステージ第17節ヴィッセル神戸戦終了後、鈴木の退団セレモニーが行われた。阿部勇樹と那須大亮から花束が贈られた後、ファン・サポーター、関係者に向けて挨拶を行い、今シーズンをもって16年間に渡る現役を引退することを宣言した〔鈴木啓太 退団セレモニー 浦和レッズ 2015年11月22日〕。 「僕の心には浦和以上に愛せるチームがありません。だから浦和の男で始まり浦和の男で終わります」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木啓太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|