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鍋山 貞親(なべやま さだちか、1901年9月1日 - 1979年8月18日)は、日本の社会運動家で、非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)幹部。大阪府東成郡鯰江村(現・大阪市城東区)出身。筆名に大川権三、石橋庸五、島崎孝次、豊崎伍一、須田麟造などがある。 ==経歴== 小学校卒業後、旋盤工として働く。次第に社会運動に傾倒し、友愛会に所属した。その後日本労働総同盟に移り、日本共産党(第一次共産党)に入党した。この間、日本労働組合評議会結成に参画するなどの活動を行った。党再建(第二次共産党)後、徐々に党内で頭角を現し、佐野学とならぶ中心的幹部として三・一五事件以後の党組織の再建に従事した。 しかし1929年、四・一六事件で警察に検挙され、1933年、獄中で佐野学とともに転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を出した。これは、コミンテルンの指導を受けての共産主義運動は日本にはそぐわないものであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(「一国社会主義」運動)を行う、というものであった。この声明は獄中にあった党員を初め、多くの運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させることになった〔保阪正康 昭和史の大河を往く 第251回 サンデー毎日 2011年3月27日特大号 pp.52-55〕。 第二次世界大戦後は一時期労農前衛党を結成して政界復帰を図るも果たせず、1946年にはのちに塩路一郎や宇佐美忠信など右派労働運動家が出入りする世界民主研究所を設立、その代表理事として反共運動を指導、死去まで勤めた。1950年に結成された民主社会主義連盟では佐野や三田村四郎と共に発起人と評議員に名を連ね、民社党・同盟の理論的・戦術的ブレーンとしても活動した。 1979年、食道癌のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)21頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鍋山貞親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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