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長井 挙冬(ながい たかふゆ、生没年:正和3年(1314年)〔-貞和3年(1347年)3月24日〔)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・大江姓長井氏嫡流の当主。通称は右馬助〔〔〔。 == 生涯 == 鎌倉時代当時の史料や古文書から、当初は長井高冬(読み同じ)と名乗っていたことが判明しており〔『鎌倉年代記』と『花園天皇宸記』における記載(別途脚注参照)から、元弘元年(1331年)当時は「高冬」と表記していたことが確実であり(紺戸、1979年(『中央史学』二 p.16、p.26の脚注(8)))、『東大寺文書』に所収の古文書(別途脚注参照)から1332年・1333年の段階でも「高冬」を称していたことが窺える。〕、「高」の字は執権・得宗の北条高時より偏諱を受けたものとされている〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図ほか)、細川・2000年・巻末基礎表P.93。〕。 嘉暦年間に長井宗秀〔系図類では祖父とされる。〕の遺跡を継ぐ形で、美濃国茜部荘正地頭となっており〔元徳4年(1332年)4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」(590号)「正地頭長井備前二郎高冬」、正慶元年(1332年、元徳より改元)7月10日付「茜部荘雑掌定尊重申状」(594号)「當庄地頭長井右馬助高冬」、正慶2年(1333年)2月日付「東大寺申状案」(553号)「當地頭右馬助高冬」。( )は『大日本古文書』第18巻・東大寺文書における文書番号を示す。〕、長井氏惣領として活動していたことが窺える〔のちの「毛利元春自筆事書案」(『毛利家文書』15号、『大日本古文書』所収)には「惣領長井右馬助」と書かれており、同族の毛利家からも惣領として認識されていたことが窺える。〕。 元弘元年(1331年)11月、元弘の乱が起こったのに伴い、その沙汰のために太田時連とともに東使として上洛した〔『鎌倉年代記』元弘元年条。 十一月討手人々幷両使下著。同日長井右馬助高冬。信乃入道々大。為使節上洛。〕〔『花園天皇宸記』元弘元年11月26日条。 今日東使高冬上洛云々。〕が、元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅ぶと、高時からの偏諱を棄て挙冬と改名〔「挙」の字が「高」と同じ「タカ」という読みであることや、「長井」の苗字、「右馬助」という通称名から、高冬と挙冬が同一人物である根拠とする見解もある(小泉宜右「御家人長井氏について」、細川重男・2000年・巻末基礎表P.93)。恐らくは祖先・大江挙周に名字を求めたものとみられる(『尊卑分脈』には挙周のルビに「タカチカ」とある)。同様の改名の事例として、足利尊氏(高氏)、足利直義(高国)、小田治久(高知)、小山秀朝(高朝)などが挙げられる。改名の理由については、高冬が東使として上洛したのに見られる通り(本文参照)、後醍醐天皇配流問題に直接関与したことを憚ったが故の行為とする見解もある(小泉宜右「御家人長井氏について」)。〕、後醍醐天皇によって始められた建武の新政では訴訟機関として設置された雑訴決断所の構成員となった。しかし、その後は建武政権に反旗を翻した足利尊氏に従い、翌延元元年/建武3年(1334年)に同じ大江一族で後醍醐天皇に従っていた毛利貞親・親衡父子が尊氏の武家政権に対抗して挙兵した後には、尊氏の命により貞親の身を預かっている〔武家家伝_国司氏 より。典拠は「毛利元春自筆事書案」(『毛利家文書』15号、『大日本古文書』所収)。〕。 貞和3年(1347年)に没し〔氏元が跡を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長井挙冬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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