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長井 貞秀(ながい さだひで)は、鎌倉時代後期の政治家・武将。 == 略歴 == 父は鎌倉幕府評定衆の長井宗秀。母は北条実時(金沢実時)の娘。 北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時より偏諱を受け〔『鎌倉年代記』の徳治元年(1306年)条に「今年四月廿五日将軍二所御参詣。御代官長井兵庫頭貞秀」と見られることから、この時二十歳を越えていて元服は既に済ませている筈であり、紺戸論文ではその時期を1301年以前と推定してその時の得宗家当主であった貞時と烏帽子親子関係を結んだとしている(紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・16~17)。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり(『世界大百科事典 第2版』「長井氏 」の項)、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられる(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)、→北条氏#北条氏による一字付与について)。〕、貞秀と名乗る。 永仁2年(1294年)3月5日に従六位蔵人となる〔「勘仲記」蔵人左衛門少尉貞秀、『史料総覧』5編905冊406頁〕。その後、中務少輔、兵庫頭〔と昇進した。嘉元4年(1306年)4月25日、将軍久明親王の代官として鶴岡八幡宮、伊豆・筥根二所権現に参詣する〔「北条九代記」「武家年代記」、『史料総覧』5編905冊546頁〕。また縁戚(母方の従兄弟)の北条貞顕(金沢貞顕)と交流があり〔金沢文庫(『金沢文庫文書』)には、徳治2年(1307年)の「長井貞秀書状」等、貞秀が貞顕や称名寺長老の明忍房剱阿と密接な交流をもっていたことを示す紙背文書群が大量に残されている(永井、2005年・2006年)。〕、文化活動に貢献した。延慶元年(1308年)に死去〔。年齢は30歳前後だったと推定されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長井貞秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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