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長井 貞重(ながい さだしげ〔安田、1990年、p.431~432 「長井貞重」の項(執筆:下山忍)。〕、文永9年(1272年)〔長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記』元徳3年2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年~1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時と烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重が泰時、頼重が時頼、貞重が貞時、高広が高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える(以上、紺野淳論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・16~17)より)。貞重の生没年については服部、1995年、p.418にも同様の言及がなされている。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり(『世界大百科事典 第2版』「長井氏 」の項)、時広の子・泰重の系統も北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったことが窺える(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)、→北条氏#北条氏による一字付与について)。〕- 元徳3年2月12日〔〔〔『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「長井貞重 」の項 より。〕(1331年3月21日))は、鎌倉時代後期の人物、鎌倉幕府の御家人〔〔。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。 長井頼重の子として生まれる〔〔。のち元服に際して、北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時より偏諱を受け〔、貞重と名乗る。 長井氏一族は、嫡流である長井泰秀の系統が関東に住したのに対し、庶流であった泰重の系統は京都に住して六波羅探題の下で評定衆を務めるなど重要な地位を占めていた〔安田、1990年、p.433 「長井泰重」の項(執筆:下山忍)。〕。 泰重の孫にあたる貞重〔も京都に住し、父・頼重から評定衆と備後国守護職を引き継いだ〔〔〔西ヶ谷、1998年、p.215。〕。これらに加え、生涯の間で掃部助、縫殿頭に任官されている〔〔。 主な活動としては、永仁3年(1295年)と嘉元2年(1304年)の小五月会流鏑馬に加わっており〔。文保2年(1318年)2月には六波羅の使者(東使)として、関東申次を務める西園寺家に赴き、公武の折衝役を務めた〔〔ことが伝わっている。これよりまもなく元応2年(1320年)の段階では貞重が備後守護であった〔ことが確認できる。 『常楽記』によれば、元徳3年(1331年)2月12日に60歳で死去したとのことである〔。 弟に長井貞頼〔『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「長井貞頼 」の項 より。〕〔服部、1995年、p.417 系図T-1。〕と長井運雅〔、子には長井高広(たかひろ)と、僧となった勝深(しょうしん、平左衛門督律師)がいた〔ようだが、評定衆は弟の貞頼が継いでおり〔、理由は不明ながら家督は貞頼の系統に移ったものとみられる。貞頼の系統はのちの安芸福原氏となる家柄である。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長井貞重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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