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長崎思元 : ミニ英和和英辞書
長崎思元[ながさき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 

長崎思元 : ウィキペディア日本語版
長崎思元[ながさき]
長崎 思元(ながさき しげん〔『北条氏系譜人名辞典』P.117「長崎思元」の項(執筆:森幸夫)。〕、生年未詳 - 元弘3年/正慶2年5月22日1333年7月4日))は、鎌倉時代後期の武士。内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官御内人)として北条貞時高時に仕えた。「思元」は出家後の法名であり、俗名長崎高光(たかみつ)または長崎高元(たかもと)とされる(後述参照)。
== 人物 ==

=== 生涯 ===
長崎三郎左衛門入道思元」の名が確認できる史料は数点残っており(後述参照)、実在した人物であることは確かである。
徳治2年(1307年)5月に出された「円覚寺大斎番文」では、円覚寺で催す毎月4日の北条時宗忌日斎会に四番衆として勤務すべき者として「長崎三郎左衛門入道」の名が確認でき、思元に比定されている〔〔『円覚寺文書』、『鎌倉遺文』30巻・22978号、『鎌倉市史』史料編「円覚寺文書」42号。〕。この推定が正しければ、史料上での初見ということになり、また同年の段階で既に出家していたことになる。また、円覚寺伏見上皇宸筆額が下賜されることになったことを伝える11月7日付の金沢貞顕(当時六波羅探題南方、越後)の書状にある「長崎三郎左衛門入道」も同じく思元に比定され、この書状は延慶元年(1308年)のものとされる〔細川、2000年、P.205。〕。
正和年間(1312年1317年)頃、鶴岡八幡宮評定衆として別当や供僧のことを沙汰したという〔。
元亨元年(1321年)、故・相馬師胤の遺領であった陸奥行方郡北田村を拝領するが、翌年にかけてこれを「押領」と主張する相馬重胤との間で相論になっている〔『相馬文書』。元亨元年12月17日付「相馬重胤申状」(『鎌倉遺文』36巻・27918号)および元亨2年7月4日付「関東御教書」(『鎌倉遺文』36巻・28086号-2)の文中に「長崎三郎左衛門入道思元」の名が確認できる。〕。同3年(1323年)の北条貞時十三回忌法要に際しては、「長崎三郎左衛門入道思元」が布施取り役の公卿や殿上人らを催促したことが確認される〔〔『円覚寺文書』。『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』2364号文書、『鎌倉市史』史料編「円覚寺文書」69号。〕。
正中2年(1325年11月22日、高時の長男(万寿丸、のちの邦時)が誕生すると、妻深沢殿が尼乳母となる形で邦時の乳母夫となる〔〔同日付とされる「金沢貞顕書状」(『金沢文庫古文書』武将編368号、『鎌倉遺文』38巻・29255号)に「尼御乳母ふかさわ殿三郎左衛門入道妻」とあり、思元に比定されている(細川・2000年・P.181 注(41)、および、永井・2006年・P.183 注(27))。〕。元徳3年/元弘元年(1331年)のものとされる金沢貞顕の書状によれば、長崎高頼邸で火事があった際の被災者に「長崎三郎左衛門入道」が含まれており〔(年未詳)正月10日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫古文書』武将編456号、『鎌倉遺文』41巻・32185号、『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』3083号)
御吉事等、於今者雖事旧候、猶以不可有尽期候。
抑自去六日神事仕候而、至今日参詣諸社候。仍不申候ツ。今暁火事驚入候。雖然不及太守禅閤御所候之間、特目出候。長崎入道同四郎左衛門尉同三郎左衛門入道同三郎左衛門尉尾藤左衛門入道南條新左衛門尉等宿所炎上候了。焼訪〔ママ、焼亡カ〕無申計候。可有御察候。火本者、三郎左衛門尉宿所ニ放火候云々。兼又御内御局数御返事、昨日被出候。進之候。又、来十二日無御指合候者、早旦可有入御候。小點心可令用意候。裏可承候。恐惶謹言。
 正月十日 崇顕
方丈進之候〕、同書状で貞顕が高時の邸宅に類焼せず良かったと述べていることから、他の長崎氏一族と同様に高時邸の近くに住んでいたことが判明している〔細川、2000年、P.211~212、注(3)。〕。
以後の活動は『太平記』に描かれている。それによれば、元弘3年/正慶2年(1333年)に新田義貞率いる反幕府勢が鎌倉に攻め入った時、「長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基二人」が極楽寺坂を守って奮戦の後、やがて父子別行動をとることとなったという〔『太平記』巻10「鎌倉兵火事付長崎父子武勇事」。〕。同記事ではこれが今生の別れかと涙にくれて立ち去り難くしている為基に対し、思元は「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」(どうせ皆今日討ち死にして明日には冥土で再会するのだから一夜別れるのを悲しむことはない)と大声で激励叱咤して立ち去らせたというエピソードを伝えている。為基と別れた思元はその後主君・高時らのいる東勝寺に赴いたようで、同寺にて自害した者の中に「長崎三郎左衛門入道思元」も含まれている〔『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。〕。これに従えば1333年5月22日の東勝寺合戦で自害したということになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長崎思元」の詳細全文を読む




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