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長崎氏(ながさきし)は、鎌倉時代の北条氏得宗家の御内人〔『国史大辞典』第10巻(吉川弘文館、1989年)P.573 「長崎氏」の項(執筆:奥富敬之)。〕。桓武平氏。同じく得宗被官で同族とされる平氏についてもこの項で扱う。 == 概要 == 平清盛の孫の平資盛の子或は曾孫とされ北条得宗家の家令となった平盛綱を祖とする。鎌倉時代になり、姓とは別に苗字が一般化した時代となると、本姓である平姓とは別に伊豆国田方郡長崎郷(現在静岡県伊豆の国市)の地を得て長崎氏を称したのに始まるという〔。北条得宗家の筆頭身内人である内管領の家系となり、盛綱の孫の平頼綱や曾孫である長崎円喜など鎌倉時代後期に将軍家や北条得宗家以上の権勢をふるった。 盛綱については、『尊卑分脉』では資盛の子、『系図纂要』では資盛の曾孫(資盛―盛国―国房―盛綱)とされており、後者では平姓関氏と結びつけて同族としている〔この系図では関実忠と平盛綱を兄弟としている。また、太田南畝編『家伝史料』(『史籍雑纂』三)所収「関家筋目」も同様の傾向を示したものである。〕が、そもそも資盛の子孫とする段階で、支持する説(森幸夫など)と否定する説(細川重男など)とで意見が分かれている。但し、飯沼資宗や長崎高資が資盛に肖って「資」の字を用いている〔細川重男 「飯沼大夫判官と両統迭立 -「平頼綱政権」の再検討-」(所収:『白山史学』38号、2002年)。〕 ことや、『太平記』巻第十「長崎高重最期合戦の事」の中で、高資の子である長崎高重が「桓武第五ノ皇子葛原親王ニ三代ノ孫、平将軍貞盛ヨリ十三代、前相模守高時ノ管領ニ、長崎入道円喜ガ嫡孫、次郎高重」〔細川重男は「……平将軍貞盛ヨリ十三代」までは高時までの系譜を語ったものであり、高重自身の家系については祖父にしか触れておらず、資盛後胤説が叫ばれていないものと解釈している(細川重男「得宗家執事長崎氏」)。しかし『尊卑分脉』から高時は貞盛から16代目にあたり、貞盛から13代目というのは円喜のことを指すことが明白であるため、細川説とは正反対で、高重が平資盛の後胤を称していたことが分かる(森幸夫 「得宗被官平氏に関する二、三の考察」)。〕と名乗りを挙げる場面があるので、長崎氏自身は平氏の末裔という自覚を持っていたのは確かであると思われる。 平盛綱・盛時・頼綱・宗綱については、後に内管領として権勢を振るう長崎円喜・高資父子と同族であるため、便宜上長崎氏に含められるが、彼らを長崎姓で呼ぶのは正式ではない(この点については後述を参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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