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長崎 泰光(ながさき やすみつ〔『北条氏系譜人名辞典』P.121~122「長崎泰光」の項(執筆:森幸夫)。〕、生没年未詳〔)は、鎌倉時代後期の武士。内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた。 『系図纂要』の長崎氏系図によれば、長崎光綱の弟・長崎高泰の子であるが、同系図の信憑性は決して高くなく、確証はない〔森幸夫の見解による。『北条氏系譜人名辞典』P.121「長崎泰光」の項、および「平・長崎氏の系譜」P.585。〕。 「泰光」という実名は『御的日記』(内閣文庫所蔵)と『太平記』〔『太平記』巻1「資朝俊基関東下向事付御告文事」。〕で確認ができる。後者は軍記物語という性格上、創作の可能性もあり得るため、これだけで直ちに泰光の存在を認めることは難しいが、一次史料と言える前者でも徳治元年(1306年)正月に幕府弓始射手を勤めた人物として「長崎孫四郎泰光」の名が見られるので、実在が認められるとともに通称が「孫四郎」であったことが分かる〔梶川、2012年、P.389。〕。すると、延慶2年(1309年)正月21日の北条高時の元服〔『鎌倉年代記』正和5年条。〕に際し「なかさきのまこ四郎さゑもん」(長崎孫四郎左衛門)が馬を献上している〔『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』1729号「北条高時元服献上品注文」。〕が、これも泰光に比定される〔。尚、通称の変化から恐らくこの間に左衛門尉に任官した可能性が高い。 『太平記』では「長崎四郎左衛門泰光」と表記している箇所がある〔一方で、別の箇所で登場する「長崎孫四郎左衛門」〔『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」文中の「長崎二郎高重・同孫四郎左衛門」。〕については実名を明記していないので、同じく四郎左衛門(尉)の通称を持つ長崎高貞と混同されがちだ〔『太平記』の注釈本によっては高貞の間違いとするものもあるという(梶川、2012年、P.389)。〕が、前述の史料からいずれも泰光を指すと考えられる〔。前者は泰光が南条次郎左衛門宗直とともに上洛し、日野資朝・日野俊基を捕縛したと伝えるものだが、実際には正中元年(1324年)9月の出来事(いわゆる正中の変)で、東使として派遣されたのも別の人物であり〔『鎌倉年代記』裏書では諏訪入道と安東入道ほか、『武家年代記』裏書では工藤右衛門二郎と諏訪三郎兵衛とする。〕、この両名は元徳3年/元弘元年(1331年)5月5日(元弘の変の時)に上洛して俊基と僧の文観・円観を捕縛した人物〔『鎌倉年代記』裏書、元徳3年条に「五月五日、長崎孫四郎左衛門尉、南条次郎左衛門尉、為使節上洛、為召禁右弁俊基幷文観、円観等也、」とある。〕を挙げたものである〔。後者は元弘3年/正慶2年(1333年)、長崎孫四郎左衛門(泰光)が長崎高重とともに、桜田貞国を大将とする幕府軍に属し新田義貞率いる軍勢と戦った、久米川の戦いの様子を伝える記事であり、鎌倉幕府滅亡の頃までの存命が確認される。尚、『梅松論』によれば、同年の段階で上野国守護代に在任していたという〔細川、2000年、P.173。〕。 建武2年(1335年)9月、朝廷は北条氏一門の旧領であった安楽村・原御厨等を伊勢神宮領とする太政官符を発給しているが、その中に泰光の領地であった伊勢国大連名芝田郷・深瀬村が含まれている〔細川、2000年、P.173。典拠の建武2年9月2日付『御鎮座伝記紙背文書』に「三重郡芝田郷長崎弥四郎左衛門尉泰光跡」の記載が見られる(こちら (外部リンク)も参照のこと)。『六条八幡宮造営注文』「建治帳」中の「狩野弥三郎入道」を「南家伊東氏藤原姓系図」上で「孫三郎」と注記される狩野行茂(工藤茂光の子・宗茂の孫)に比定した上で「弥」を「孫」の誤りであったとする今野慶信の見解(今野「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫 他編『中世武家系図の史料論』上巻、高志書院、2007年)P.116)に従えば、同様に「弥四郎」は「孫四郎」の誤記であった可能性が高い。〕ことから、幕府滅亡後まもなくして泰光の領地は収公されたことになる。幕府滅亡に殉じた(1333~1335年の間に死去した)可能性は高いが、死の詳細については不明である。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎泰光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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