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「奥南落穂集〔(近世こもんじょ館)奥南落穂集改題 一、閉伊郡之次第 〕」によれば、閉伊氏には2系があり、 1.平安末期に藤原秀衡旗下にあって、中田城に居住して文治5年(1189年)奥州征伐で藤原氏と命運を共にした閉伊氏と、 2.以下で述べる、鎮西八郎為朝の四男の家系が奥州閉伊郡半地の地頭に補された嶋為頼を祖とする閉伊氏がある。 ---- 閉伊氏(へいし)は、陸奥国の武家で本性は源氏。鎌倉時代から戦国時代にかけて、陸奥国閉伊郡(現岩手県宮古市周辺)を根拠に活動した。 == 概略 == 保元の乱で敗北した源為朝は、配流された伊豆で男子を儲けた。これがのちに閉伊氏の家祖となる、島為頼である。 為頼は源頼朝に従いその命で佐々木高綱の猶子となり、佐々木十郎行光を名乗り佐々木氏を称して四つ目結を家紋とした。 頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼすと、行光は閉伊郡、気仙郡の統治を任せられる。建久年間、適地を求め気仙から閉伊に移った行光は、領地の名を取り、閉伊頼基と名乗った。このため「閉伊源氏」と呼ばれ、閉伊川沿岸で繁衍する一党で、多くの地侍の信仰を集めた。 鎌倉時代の閉伊氏は、いわゆる地頭として地域を治める鎌倉御家人であり、閉伊十郎は北条貞時から由比ヶ浜に宅地を与えられている〔遠野南部文書 弘安8年正月23日北条貞時下知状〕。 また正応から元応にかけて、閉伊光員の遺領を巡って子の閉伊光頼と閉伊員連が争った。俗に言う相続争いである。この裁定は北条高時によって鎌倉においてなされ、光頼には呂木(老木)、閉河(閉伊川)、多久佐利(田鎖)、小山田、閉崎(閉伊崎)、赤前の地を、員連には鍬崎(鍬ヶ崎)、笠間の地の領有を認めている〔田鎖文書 元亨4年11月23日関東裁許状〕。 閉伊氏の後流と称するものには、田鎖・刈屋・和井内・茂市・長沢・花輪・高浜・根市・中村・赤前・重茂・大沢・蟇目・田代・山崎・荒川・近内・小山田・江刈内・箱石・大川などの諸氏があり、閉伊郡内の地名を氏とするものが多く、その地の地頭として、閉伊氏一族の勢力分野を示している。 建武の新政で鎌倉幕府が崩壊すると、光頼の子、閉伊親光は陸奥国司の北畠顕家に従い所領を安堵された〔盛岡南部文書 元弘4年正月21日閉伊光頼法師代子息親光言上状並北畠顕家外題安堵〕。 南北朝時代になると閉伊氏一族は南朝側である顕家率いる奥州武士団に加わる。豊島河原合戦、青野ヶ原の戦いでは足利尊氏らの軍勢を打ち破るが、石津の戦いに敗れ敗走する。室町幕府の成立後、閉伊三郎に宛てて奥州総大将に任命された石塔義房から軍勢催促状が送られている〔遠野南部文書 暦応2年5月15日石塔義房軍勢催促状〕。 これは閉伊氏が石塔義房の進める奥州勢力再編に従った事を示している。 その後閉伊氏は新たに居城となる田鎖城を築き、閉伊氏嫡流は田鎖氏を名乗るようになった。田鎖城は永和年間の築城とされる(日本城郭体系2)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「閉伊氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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