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阿刀田 高(あとうだ たかし、1935年1月13日 - )は日本の作家、小説家。「奇妙な味」の短編で知られる。2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長を務めた。 == 経歴 == 東京生まれ。両親は共に宮城県仙台市の出身だった〔阿刀田という珍しい苗字は日本全国に10世帯あるのみである。仙台に多く、祖先は阿刀寺という寺を営んでいたが、加藤田という苗字の相手と結婚したことから、両方の文字を混ぜて阿刀田という苗字になったという(『オール讀物』1986年10月号における阿刀田の発言)。〕。父方の伯父の阿刀田令造は西洋史学者で第二高等学校第9代校長を務め、名校長と謳われた。令造の父の阿刀田義潮(よしとも)は宮城県名取郡下増田村(現在の名取市)の初代村長だった。 本籍は東京・西荻窪で、戦時中は宮城県の名取に疎開し、増田小学校に通学する。16歳のとき、長岡市で鋳物工場を経営していたエンジニアの父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育つ。長岡市立南中学校、新潟県立長岡高等学校を経て東京都立西高等学校に転校、長岡空襲で被災する。少年時代から科学が好きで、海軍技師、医師、薬剤師と志望を変えた。 1954年、早稲田大学第一文学部フランス文学科に入学する。もっぱら奨学金と家庭教師のアルバイトで自活していた。 早稲田大学に入学した当時は新聞記者を志望していたが、1955年に結核を病んで休学し〔ただし阿刀田自身は「僕も実を言うと、中退してるんです。大学二年の頃、結核になってね。休学するつもりだったんだけど、事務局の人に、『一年以上も休むんなら、中退した方がいいよ』って言われてね。ちゃんと手続きをとれば無試験で復学できるんですね。その間の授業料も納める必要ないし。だから、二年間療養して、ちゃんと復学できました」と語っている(阿刀田高会見 )。〕、16か月間の療養生活を送る〔この時期に多数の短篇小説を読んだことが、後年、小説を書く上で大きな力を与えてくれたという。〕、このため志望変更を余儀なくされ、1960年に大学を卒業した後、文部省図書館職員養成所に入学する。1961年から国立国会図書館に司書として勤務する。このころ、恩師が出版した日本語関係の小冊子に、古今東西の殺し文句に関する随筆を発表したところ、思いがけず『朝日新聞』の文化欄に取り上げられて喜ぶ。1964年9月、池田書店からの依頼で『ころし文句』(長崎寛との共著)を上梓する。引き続き、池田書店から『笑いのころし文句』『ユーモア一日一言』などの随筆集を刊行する。1969年、著書『ブラックユーモア入門』(KKベストセラーズ)がベストセラーとなったことに勇気を得て、1972年に退職し、筆一本の生活に入る。コント、翻訳、広告文案などを手がける。 1978年、短編集『冷蔵庫より愛をこめて』が直木賞候補となる。1979年、短編『来訪者』で第32回日本推理作家協会賞を受賞。1979年、短編集『ナポレオン狂』で第81回直木賞を受賞。1995年、『新トロイア物語』で第29回吉川英治文学賞を受賞。2003年、紫綬褒章。2007年より日本ペンクラブ会長。現在は新田次郎文学賞、直木賞、小説すばる新人賞選考委員、講談社『小説現代』のショートショート・コンテスト選考者を務めている。2012年4月に山梨県立図書館館長に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿刀田高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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