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阿部 正桓(あべ まさたけ、嘉永4年12月29日(1852年1月20日) - 大正3年(1914年)8月19日)は、備後福山藩の第10代(最後の)藩主。阿部家宗家14代。 浅野懋昭(安芸広島藩主・浅野重晟の孫)の三男。官位は従二位、爵位は伯爵。 == 生涯 == 安芸広島藩第12代藩主・浅野長勲の実弟として生まれる。初名は浅野元次郎。戊辰戦争最中の慶応4年(1868年)、18歳で備後福山藩第9代藩主・阿部正方の養子となり、名を正桓と改め、5月20日に福山城へ入って家督を継ぐ。実際には、正方は前年末に死去しており、それを隠しての入嗣であった。そのため、正方の死は翌月6月になって公表された。なお、この強引ともいえる養子縁組は、新政府の福山藩存続を許す条件であったといわれる。 同年の福山藩は、年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城に始まり、伊予国松山への出兵、播磨国西宮の警護、大阪府天保山砲台の警護など新政府軍への対応に追われており、芸州藩(新政府)の半ば占領状態であったが、正桓も藩主就任直後の明治元年(1868年)9月に箱館戦争への出兵を命じられた。 度重なる兵力動員に藩財政は実質的に破産状態にあったが、元々は徳川譜代の重鎮であった負い目から新政府の要求を拒否することはできず、10月2日に総督・岡田伊衛門、参謀・江木鰐水以下696名が鞆から船に乗り、函館(北海道)へと向かった(この戦いは明治2年(1869年)5月まで続いた)。 翌明治2年(1869年)2月、正桓は版籍奉還を願い出て、同年8月に福山藩知藩事(藩知事)に任命される。こうした中、正桓は藩政改革を開始し「福山藩職員令」を発布して、従来の家老を中心とした藩組織を大参事を中心とした近代的な組織へと改め、人事も刷新した。 しかし明治4年(1871年)7月、廃藩置県により正桓は知藩事を罷免され、同時に東京府への上京を命じられることになった。そして同年9月に正桓が福山を出立しようとしたところ、この上京に反対した民衆が福山城下に集まり、一部が暴徒化して藩兵に鎮圧される事件が発生した。しかも騒動はこれで収まらず、藩内各地に飛び火して打ちこわしや放火が相次いで発生した。これに対し、正桓は自ら説得に当たるなどし、結局出発は11月まで延期されることになった。 東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に移り住んだ正桓は、明治17年(1884年)伯爵に叙される。明治18年(1885年)9月、福山教育義会会長として旧藩校誠之館の維持に努める。 大正3年(1914年)、従二位に叙され、同年に死去した。享年64。 養子として旧姫路藩主酒井伯爵家に入った次男・忠正は、農林大臣などを歴任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿部正桓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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