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院政期文化(いんせいきぶんか)または平安末期文化(へいあんまっきぶんか)とは、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きがみられた。 == 概要 == 院政期は、治天の君による仏教保護政策などによって寺社の世俗化のおおいに進展した時期であったが、その反面では、こうした寺社の世俗化をきらって特定の寺院に属さない「聖」や「上人」とよばれる民間布教者があらわれ、とくに浄土教の教えを京の都はもとより地方へも広めていった時期である。 京と琵琶湖岸の要津坂本とをつなぐ白河の地には六勝寺が建ち並び、北野神社とその周辺、さらにまた、多くの離宮が建てられた鳥羽周辺の京都南郊もまた宇治川や淀川と結びついて新たな都市的空間となりつつあった。当時の京都は、このように全体として新都市の様相を呈しており〔網野『日本社会の歴史(中)』(1997)。〕、そこでは王権の強化にともなう各種の美術品の創作がみられた。院は、古代国家の復活を願ったところから、その芸術には復古的な傾向がうかがわれ、離宮や御所の宝蔵には国内外の宝物が集められ、王権はさまざまな形で表現された〔五味文彦「院政期の美術」『日本美術館』(1997)。〕。地方の文物はかつてないほど都に流入していったのである。 中央の文化も広く地方へ伝播していった。それはおもに奥州平泉の中尊寺金色堂、陸奥の白水阿弥陀堂、伯耆の三仏寺投入堂、豊後の富貴寺大堂など、寺院建築の遺構にその傾向が顕著にうかがえる。また平清盛ゆかりの安芸の厳島神社も当時の地方の文化水準の高さを物語る。 没落しつつある貴族層の関心が、庶民や新興階級である武士に向かったのも院政期であった。それは、軍記物の執筆や説話集の編纂、また、新しい絵画ジャンルである絵巻物の画題などにもよくあらわれている。さらに、後白河法皇による『梁塵秘抄』の編纂や、芸能化され貴賤問わず大流行した田楽のように、貴族と庶民の文化交流も広汎にみられた。その一方で『栄花物語』など懐古的傾向をもつ歴史物語もつくられた。和歌にも新傾向がみられる。 日本語の上でも平安中期とは違いが見られる。山田孝雄は平安時代のうちから院政期を分け、むしろ鎌倉時代と違いがないとし、「院政鎌倉時代」という言語上の時代区分を設け〔山田孝雄『奈良朝文法史』宝文館出版、1912年。〕、それは現在広く受け入れられている。日本の国語教育の「古文」で教えられる古典文法の活用体系や係り結びの法則、47文字の仮名の区別は平安中期のものを基準としているが、院政期はこれらが崩れてくる時期ととらえられる。「お」と「を」の間に音韻上の区別がなくなったのも11世紀末頃と考えられている〔馬淵和夫『国語音韻論』笠間書院、1971年。〕。 院政期文化は総じて、貴族の文化的関心が都での現実生活から、地方、庶民、過去(歴史)へと向かう傾向が顕著であり、また、武士・庶民文化の萌芽もみられる点を大きな特色としている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「院政期文化」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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