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陳太宗(ちんたいそう、ベトナム語(チャン・タイ・トン), 1218年7月10日〔大越史記全書 本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 建嘉8年6月16日〕 - 1277年)は、陳朝の初代皇帝(在位1225年 - 1258年)。陳朝の実質的な創始者である陳守度の甥。太宗は廟号で、諱は煚。兄に安生王柳がいる。 == 経歴 == 建嘉8年(1218年)、太宗は陳承の第2子として生まれる。母は黎氏。有道2年10月(1225年11月頃)に宮中に入内〔大越史記全書 本紀巻之四 李紀 昭皇 有道2年10月〕。李朝の女帝・昭皇に見初められ、遊び友達となると、まもなく結婚した。同年12月12日(1226年1月11日)、陳守度や馮佐周の工作により、昭皇から禅譲され、わずか8歳で帝位に就くこととなった〔大越史記全書 本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 有道2年12月12日〕。しかし、皇帝が幼年であることから、実際の政務は陳守度が執った。建中2年1月(1226年2月頃)、昭皇を后として立て、昭聖皇后と改めた〔大越史記全書 本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 建中2年正月〕。 建中5年(1229年)、宋に使者を派遣し、安南国王に封ぜられる〔山本(1975年)、83ページ〕。成人すると親政を開始し、科挙による有能な人材登用や諸制度の整備など、陳朝の土台を固める事に務めた。元豊7年(1257年)11月には兀良合台の率いるモンゴル軍が侵攻し、12月には紅河北岸の「平厲源」の地で蒙越両軍が衝突したが、太宗は自ら出陣した〔山本(1975年)、85ページ〕。しかし、モンゴル軍が紅河を渡河すると、国都タンロン付近の瀘江口、さらに天幕口に撤退した。一時タンロン占領されたが、間もなくモンゴル軍が撤退したため、ベトナム軍は追撃してこれを打ち破った〔山本(1975年)、85-86ページ〕。 元豊8年(1258年)、長子の聖宗晃に譲位して太上皇となったが、引続き政治を執り行った〔山本(1975年)、86ページ〕。同年、使者をモンゴルに派遣し、国交を開いた〔山本(1975年)、87ページ〕。このときのベトナム君主は、日煚(太宗)の長子の「光昺」と記録されているが、光昺は太宗の別名であり〔山本(1975年)、86ページ〕、モンゴルと戦った君主とは別人が位に就いた形をとり、国交を開いたとされる〔山本(1975年)、87ページ〕。 モンゴルでクビライが即位すると、翌年の紹隆4年(1261年)に使者を派遣。三年一貢を申し入れ、元朝より「光昺」として安南国王に封ぜられた〔山本(1975年)、87-88ページ〕。 治政の傍ら、禅を修行し、譲位後に修行に打ち込み、禅に関する著作も著した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陳太宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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