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難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の上町台地の先端付近にあった古代宮殿。 == 概要 == 難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。1913年(大正2年)大阪城外堀南の法円坂で奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。1945年(昭和20年)、日本敗戦によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。 そこで山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに1954年(昭和29年)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では難波宮のあとなのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した〔『大阪の史跡を訪ねて(1)原始・古代篇』(ナンバー出版)〕。しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、686年(朱鳥元年)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。1961年(昭和36年)山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根徳太郎は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり。」という発言を残した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「難波宮」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Naniwa Nagara-Toyosaki Palace 」があります。 スポンサード リンク
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