|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 青 : [あお] (n) 1. blue 2. green 3. green light ・ 青森 : [あおもり] (n) Aomori prefecture (Touhoku area) ・ 森 : [もり] 【名詞】 1. forest ・ 祭 : [まつり] 【名詞】 1. festival 2. feast
青森ねぶた祭(あおもりねぶたまつり)は、青森県青森市で8月2〜7日に開催される夏祭りであり、毎年、延べ200万人以上の観光客が訪れる。1980年に国の重要無形民俗文化財に指定された。 == 起源・歴史 == 以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし坂上田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流で、現在の形式のねぶた祭りの発祥は浅虫ねぶたとされている〔青い森鉄道発行「駅周辺散策マップ 浅虫温泉駅」〕。一方で、田村麻呂の側近である文室綿麻呂は史実の上で青森県まで達した可能性が高く、また青森ねぶたのみ、他の地域のねぶた・ねぷたと大きく異なる、日本の伝統音楽には他に類を見ないほどの勇壮な囃子であることから、蝦夷征伐説の可能性もなお否定できない。 藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対ししばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には戦意高揚の為に解禁されており、「桃太郎の鬼退治」をもじった「桃太郎のルーズヴェルト退治」(製作者は北川金三郎)といったものが製作された。戦後は逆に進駐軍の影響により西洋への敵対的な表現ができなくなり、また刀を持ったねぶたも事実上制作不能だった。進駐軍撤退後には企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分はその上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に北川啓三というねぶた師が針金を用いて指を1本ずつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われているが、その表現性の高さから程なくして主流となった。北川によってロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功しより芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの磯は北川が築いたと言える。その後、佐藤伝蔵や鹿内一生によって更にねぶたの造形性が高められ現代のねぶたの形が整った。 ねぶた作りは、 #題材の決定 #設計図となる下絵を描く #各パーツの製作 #パーツ類を配置する為の骨組み #明かりを内側から灯す為の電気配線 #針金の表面を覆う紙貼り #紙の上に黒いフチや線を描く書割 #着色時の色の混濁を防ぐロウ書き #白地に彩色する色付け #持ち上げて台車に設置する台上げ というこれらの10の工程を経て完成する。 現在では最大サイズとして幅約9m、高さ約5m、奥行き約7mと言う規定がある。なお、明治から大正にかけてのねぶたは現在のものより背が高く、立った姿勢であった(写真が現存しており確認可能)。電気の普及により張り巡らされた電線を避ける目的で姿勢を低くして現在の形へと姿を変えていく中で前述した大きさの規定ができた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「青森ねぶた」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Aomori Nebuta Matsuri 」があります。 スポンサード リンク
|