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頡干迦斯(漢音:けつかんかし、拼音:Jiégànjiāsī、生没年不詳)は、回鶻可汗国の大相(大宰相)で将軍。武義成功可汗、忠貞可汗、奉誠可汗の3代に仕えた。頡干迦斯の原音はイル・ウゲシ(Il ügäsi)〔山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』p111〕〔森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』では「イル・オゲシ」と表記し、阿跌(エディズ)氏の骨咄禄(クトゥルグ)将軍(懐信可汗)と同一人物であるとしている。(p303)〕と思われる(だとすれば「干」の字は「于」であった可能性がある)。「el ögäsi / ügäsi」とは「国の顧問」という意味で、宰相クラスに相当する称号であり〔〕、個人名ではない。 ==生涯== 建中元年(780年)、唐で回紇〔ウイグルが788年か809年に国号を「回鶻」と改めるまでの記名。〕酋長の突董,翳蜜施,大小の梅録らの4人が九姓胡(ソグド人)にそそのかされた〔この事件は大暦14年(779年)の頓莫賀達干によるソグド人迫害によるものであろう。〕振武軍使の張光晟によって殺されるという事件が起きた。翌年(781年)、京兆少尹の源休は詔と4人の遺体を回紇にもたらしたが、大相(大宰相)の頡干迦斯(イル・ウゲシ)にその罪を咎められ、50日間拘束された。武義成功可汗は源休を許して釈放すると、散支将軍の康赤心〔サマルカンド(康国)出身の者か?〕らを源休に随わせて唐に入朝させた。 貞元6年(790年)、吐蕃が三姓葛禄(ウチュ・カルルク),白眼突厥(白服突厥)らと共に北庭大都護府を攻撃したので、忠貞可汗は頡干迦斯を派遣して救援に向かわせた。しかし、頡干迦斯率いる回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、北庭大都護の楊襲古は兵と共に西州に奔走した。その後、頡干迦斯は楊襲古と連合して北庭を取り返そうとしたが、ふたたび敗れ、兵の大半が死んだ。このとき楊襲古がまた西州に逃げようとしたので、頡干迦斯は彼を召して殺した。一方、吐蕃・葛禄(カルルク)が回鶻に迫り、深図川を取ったので、回鶻は大いに恐れ、部落の羊馬を牙帳の南に遷してこれを避けた。6月、頡干迦斯は本国に帰還するが、彼の遠征中に忠貞可汗がその弟に殺され、その弟も国人によって殺されて新たに忠貞可汗の子である阿啜(奉誠可汗)が立っていた。可汗阿啜と国人たちは頡干迦斯を出迎え、ひれ伏して可汗廃立の事情を説明するとともに、留守中に惨事を起こしたことを陳謝した。事情を聞いた頡干迦斯は新たな可汗に臣下の礼を執るとともに忠貞可汗の死を悲しんだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「頡干迦斯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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