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顧憲成[こ けんせい]
顧憲成(こ・けんせい、1550年 - 1612年)は明代末期の中国の儒学者。字は叔時。涇陽と号する。諡は文端。官界の外にあって反政府的な一大勢力をなし、東林党と呼ばれた。顧允成、高攀龍、安希范、劉元珍、錢一本、薛敷教、葉茂才らとともに「東林八君子」の1人。 ==生涯== 無錫(現在の江蘇省無錫市錫山区張泾鎮)の出身。家は貧しかったが学問を好み、日夜読書に励んだため、隆慶4年(1570年)に補邑庠生員となり朱子学を修める。万暦4年(1576年)に郷試の首席となり、万暦8年(1580年)に進士、戸部主事に任命された。万暦10年(1582年)に吏部稽勛司主事・考功司を歴任、執政に不満を持ち弾劾したことで桂陽州(湖南省)判官に左遷され、その後再び中央に挙げられ、官位は吏部文選郎中まで達する。万暦22年(1594年)に皇帝の長子をすぐに立太子するよう痛烈な意見書を発表し、それが斥けられたことを理由として同志とともに辞職して故郷に帰る。万暦26年(1598年)から惠山第二泉で講学に励み、万暦32年(1604年)に宋代の儒学者・楊時の跡を継ぐために、弟の允成・高攀竜とともに東林書院を再興し、北京の首善書院と並び称されるようになる。万暦36年(1608年)に南京光禄少卿に推挙されたが辞して、死ぬまで講学に力を尽くした。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「顧憲成」の詳細全文を読む
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