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飯沼 資宗(いいぬま すけむね)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府第9代執権北条貞時の執事(内管領)として、絶大な権勢を振るった平頼綱の次男。諱は助宗とも。御内人で国司(安房守)に任命されるケースは稀である。 == 生涯 == 弘安2年(1279年)9月、得宗領である駿河国富士郡内で「刈田狼藉」を行ったとして日蓮門徒の百姓が捕縛され〔今井、1999年。〕、頼綱の命で鎌倉の侍所へ連行された、いわゆる「熱原法難」の際、当時13歳(数え年)の資宗が門徒に改宗を迫って鏑矢を射たという(後述関連史料『弟子分帳』を参照)〔。 正応2年(1289年)9月、得宗政権による将軍すげ替えのため、将軍惟康親王が京都へ送還される。資宗は御内人としては異例の検非違使に任ぜられ、10月に新将軍久明親王を迎えるために上洛した。その際、「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」と、流罪として送還された前将軍惟康親王の通った跡は通れぬと詠い、箱根を通らず足柄山を越えたという。入洛後は検非違使任官の挨拶回りのため、束帯姿で4,5百騎の武士を従えて上皇御所や摂関家、検非違使別当邸を訪れ、そのありさまを多くの貴族達が大路の傍で見物した。資宗はさらに五位の位を得て、大夫判官となり、御内人としてかつてない栄誉を極めた。直属の上司である検非違使別当は、ある法会の上卿(責任者)を急遽辞して、資宗の訪問を待ち受けている。 この年の3月から鎌倉に滞在していた『とはずがたり』の作者後深草院二条を邸にたびたび招いて和歌会を催している。二条は資宗を「思ったよりも情ある人」と評し、その交流の深さから周囲に仲を疑われたと思わせぶりに描いている。 正応4年(1291年)、鎮西の訴訟と引付衆による神社・仏寺の裁判迅速化のための監察となる。正応5年(1292年)5月に再び上洛し、検非違使として葵祭の行列に加わった。金銀で飾り立てた資宗一行の出で立ちは、見物した正親町三条実躬が日記『実躬卿記』において「その美麗さは、およそ言語の及ぶところではない」と評するほどであった。 賀茂祭の翌年、正応6年(1293年)4月22日、鎌倉大地震での混乱の最中、鎌倉の経師ヶ谷にある頼綱邸で、頼綱の権勢を危険視した貞時の命を受けた武蔵七郎の軍勢に急襲され滅ぼされた(平禅門の乱)。享年27〔。御内人の賀茂祭り参加は資宗が最初で最後となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯沼資宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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