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香取海[かとりのうみ] 香取海(かとりのうみ)は、古代の関東平野東部に湾入し香取神宮の目前に広がっていた内海を指す〔下総国・常陸国の歌枕として万葉集に「香取の海、香取の浦」が現れる。〕。江戸時代前まで下総・常陸国境周辺に存在し、鬼怒川(および小貝川・常陸川)が注いだ。 古文書には内海(うちうみ)、流海(ながれうみ)、浪逆海(なさかのうみ)などの名で現れ〔山路直充『「衣河の尻」と「香取の海」』、古代交通研究第13号 2004〕、鬼怒川が注ぐ湾入部は榎浦(榎浦流海)とも呼ばれた。 == 概要 == 香取海は縄文時代前期には霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼までつながり規模の大きい内海だった〔岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』 ISBN 978-4316357508〕。当初は鹿島灘にはっきりと湾口を開いていて、この時期の香取海は古鬼怒湾と呼ばれる。その後、海退および鬼怒川などが運ぶ土砂の堆積で次第に陸地化し狭まり、奈良時代頃は現在の河内町から榎浦津(稲敷市柴崎)付近が香取海の西端で鬼怒川が注いでいた〔印旛沼の汽水化進行や鬼怒川からの土砂流入などの考古学的知見からも香取海の海域が推定される(「印旛沼物語 」白鳥孝治、印旛沼流域水循環健全化調査研究報告第2号2014年3月)。〕。その細長い湾入部は榎浦と呼ばれ、北の常陸国信太郡と南の下総国香取郡・印波郡とを隔てていた。 古くから水上交通を通じた独自の文化圏・経済圏が形成され、東北地方や北関東・南関東、さらには西国への物流経路を担っており〔、これを巡る争奪戦は平将門の乱や平忠常の乱、治承・寿永の乱の原因・遠因となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「香取海」の詳細全文を読む
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