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赤星憲広 : ウィキペディア日本語版
赤星憲広[あかほし のりひろ]

赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )は、愛知県刈谷市出身の元プロ野球選手外野手)で現在は株式会社オフィスS.I.Cとマネージメント契約し野球評論家、野球解説者として活躍している。現役時代は阪神タイガースに所属していた。血液型はA型。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
赤星曰く幼少期から運動神経がよく、小学校時代には野球以外のスポーツでも誰かに負けたことがなかった〔赤星2008、115頁。〕。足の速さに関しては幼稚園に入園する頃にはすでに自覚があり、誰かに負けた記憶がないという〔赤星2010、88頁。〕。ただし努力をしなくてもあらゆるスポーツで負けることがないことで「何をやっても面白くない」、何をやってもうまくいくがゆえに「逆に自分は何をするべきなのか、何をやると一番楽しいのかということがわからない」心境に陥っていた〔赤星2008、127-128頁。〕。そのため赤星はしばしば、サッカーの試合で自分がゴールを決められる状況で敢えてパスを出すといった具合に「できるのは自分だけじゃない」ということをアピールすることを試みた。赤星はこの頃の自身について、自分ばかりが目立たないよう気を遣ったつもりで「ある意味では相手に失礼な、必要のない、余計なやさしさ」を見せていたと振り返っている〔赤星2008、129-132頁。〕。赤星曰く、学年が上がり自分より能力が上の、努力しないと勝てない存在と出会う中でこの性格は変わっていったものの、「あらかじめ与えられた能力で簡単に勝つ」ことが嫌いな点は変わっていないという〔赤星2008、134頁。〕。また水泳教室にも通っていた(「表彰」の項目を参照)。
父親が少年野球のコーチをしていたため、赤星は幼少期から野球に親しんで育った〔赤星2008、124頁。〕。小学校時代、赤星は父親がコーチを務める少年野球チームに入部しようとしたが、「俺がやめるまで、お前にはやらさない」と言われたことに反発し、「だったらサッカーをやるよ!」という気持ちになり、小学校の部活ではサッカー部を選択した〔赤星2008、124-125頁。〕。父親がコーチを辞めたため少年野球チームにも所属したが、先に始めたサッカーの魅力が勝っていた(赤星曰く、サッカーが8で野球が2)〔赤星2008、125-126頁。〕。小学校6年の時にはフォワードとしてサッカーの愛知県代表に選出されたこともある〔スポーツニッポン引退記念号、10面。〕。しかし同じく小学校6年の時に野球チームのキャプテンに選ばれ、掛け持ちはできないと判断した赤星はサッカー部を辞め、野球に専念することにした〔赤星2008、126-127頁〕。
刈谷南中学校時代は軟式野球部に所属。1・2年生時は内野手だった。赤星によると、ポジションが同じで赤星よりも足が速い上級生(後に読売ジャイアンツトレーナーとなる鬼頭健介)に出会ったことで、初めて「この人を越えたい」という気持ちを抱き、それをきっかけに努力することの楽しさに目覚めた。努力することに楽しさを見出したことで、野球に取り込むことも楽しくて仕方がないと感じるようになった〔赤星2008、136-138頁。〕。赤星曰く、野球に取り組んでいる際の性格が「熱く」なったのも中学時代で、「小学校時代に眠っていた部分が目を覚ました」と振り返っている〔赤星2008、140-141頁。〕。赤星は「野球というスポーツがなかったら、きっと僕はこんなひとつのことに熱くなれる人間になっていない」、「僕は野球に凄く感謝している」と述べている〔赤星2008、142頁。〕。3年生の時は投手を務めた〔赤星2010、91頁。〕。
刈谷南中学を卒業後、大府高校に進学、野球部に入部した。この時、赤星は野球のためだけに高校へ行きたくないと考えたことに加え、前述の「あらかじめ与えられた能力で簡単に勝つ」ことを嫌う性格から「『甲子園に行きたいから私学へ』という道ではなくて、むしろ一番簡単そうじゃない道を選んで、それを乗り越えてみせる」という思いを抱き、あえて強豪私立高校ではなく県立高校へ進学することを選んだ〔。
入部当初、赤星は右打者であったが、監督の馬場茂から「左で打つならすぐにベンチに入れてやる」と左打者への転向を勧められ、それに従った〔赤星2010、92-93頁。〕。転向後、内野安打が増えて出塁の機会が多くなり、足を活かす野球を考えるきっかけになった〔赤星2010、94頁。〕。1年生の秋にレギュラーとなり、1番打者として活躍。チームの得点パターンは赤星が出塁して二盗三盗を決め、その後スクイズプレイを決めるというものであった〔〔スポーツニッポン引退記念号、14面。〕。の第65回選抜高等学校野球大会二塁手として、翌の第66回選抜高等学校野球大会遊撃手として出場した〔。選抜高等学校野球大会で赤星は2年連続で同じようなタイムリーエラーを犯し、チームはいずれの大会でも初戦敗退を喫している。このうち2回目のエラーについて赤星は、「またエラーをするんじゃないか」という思いに囚われていたところにボールが飛んできたことで起こったもので、技術の問題ではなくすべて気持ちの問題であったと振り返っている〔赤星2008、26-27頁。〕〔赤星2010、94-95頁。〕。2010年に藤川球児との対談で、高校時代の甲子園には非常に嫌な思い出しかないとコメントし、この対談時に初めて当時の映像を観覧した。赤星は、プレーをするにあたっては前向きな気持ちで臨むことが重要で、気持ちが前向きであれば結果的にエラーをしてしまったとしても後悔は残らず、失敗から学ぶことで次に繋がると述べている〔赤星2008、27-28・45頁。〕。なお、赤星は亜細亜大学2年時の明治神宮野球大会三塁手として出場)でもタイムリーエラーを犯し、チームは0対1で敗退している〔サンケイスポーツ特別号、18頁。〕。
中学・高校時代は同じ右投げ左打ちの小柄な遊撃手である立浪和義が「全てにおいて目標であり等身大の憧れ」であった〔赤星憲広/野球;有名人スポーツワンポイント講座 〕〔赤星2010、91頁。〕。
高校時代、赤星はドラフト候補として名前が挙がったがプロになる自信はなく、スカウトからも体の小ささを指摘され、大学か社会人で経験を積んだほうがいいと指摘された〔赤星2010、96-97頁。〕。赤星は地元の大学で教員免許を取りたいと考え、中京大学を受験したが対策を立てずに臨んだ小論文が不首尾に終わり、不合格〔〔赤星2010、96-98頁。〕。教員免許を取得できる東都大学野球連盟所属の亜細亜大学から勧誘があったことから同大学に進学、野球部に所属した。実際に赤星は亜細亜大学在学中に社会科の教員免許を取得している。大学卒業後プロ野球選手になれなかった時には、高校の教員になって野球部の監督になろうと考えたこともあったという〔赤星2008、208頁。〕〔。
亜細亜大学野球部の練習は非常にハードであった。赤星は大府高校の卒業生として初めて東都大学野球連盟所属の野球部に所属することになったことを強く意識し、大府高校から亜細亜大学へ進学するルートを潰したくないという思いを抱いていた。そのため常に「なんでこんなところに来てしまったのか」という思いと「やめられない」という思いの間で揺れていた〔赤星2008、143-146頁。〕。ただ同時に、「絶対やめられないわけだし、これだけ苦しいことをどうせやるんだったら、とことん上を目指してやらないと意味がない」とも思っていた〔赤星2008、145-146頁。〕。
1年生の秋に三塁手のレギュラーを獲得し、2年生の春に外野手(主に右翼手)に転向。1学年上の外野手飯塚智広を目標とした〔赤星2010、101-102頁。〕。飯塚の卒業後、1番中堅手として活躍。4年生の秋には明治神宮野球大会で優勝を経験した〔赤星2010、102頁。〕。大学時代の通算成績は、東都大学1部リーグ通算78試合出場、219打数61安打、打率.279、3本塁打(リーグタイ記録の3試合連続本塁打)、27打点。ベストナイン3回、通算45盗塁(野村謙二郎の52、鈴木香の51に次ぐリーグ歴代3位の記録。1年生だった2部時代を含めれば通算51)というものであった〔。赤星は大学時代を振り返り、「プロのレベルまで上りつめられたのは、技術的にも、精神的にも、亜細亜に行ったおかげだろう」、「いろいろなものを犠牲にしてまでも野球に打ち込んで、あの4年の間、地獄のような生活をしてきたからこそ、こうやって今がんばっていられるのは間違いない」と述べる一方、「あそこに入って野球を始めた日から終わる日まで、一回もよかったと思ったことはない」「もう1回、あの4年間をやるかと言われたら、絶対に無理」「何億とお金を積まれても無理」「もう思い出したくもない」〔赤星2008、148-150頁。〕、練習が厳しいことを「もし知っていたら進学先に選んだかどうかははなはだ怪しい」と回顧している〔赤星2010、99頁。〕。
赤星は大学での4年間の経験を経て肉体的・精神的に成長したと感じ、東都大学リーグ優勝に貢献したという自負もあったことから、大学卒業時にはプロ野球を強く意識していた。しかし高校卒業時と同様、体が小さいという理由で声はかからなかった。当時の赤星にとってこれは「もうプロはあきらめなさい」と言われたのも同然で、プロ野球選手になることを諦め、JR東日本に入社、社会人野球で野球を続けた〔赤星2008、150-151頁。〕。赤星には11の社会人チームから声がかかり、その中にはJR東日本より強いチームもあったが、社会人野球の存続が危ぶまれる中、チームの強さよりも就職先としての安定感を優先させ、JR東日本を選択した〔赤星2010、102-103頁。〕。
JR東日本入社後まもなくシドニーオリンピックの強化指定選手に選ばれ、千葉ロッテマリーンズのキャンプに参加。この時赤星は「守備と走塁は何とかなりそうだ」という感触を得た〔赤星2010、104頁。〕。翌年には阪神タイガースのキャンプに参加。監督の野村克也から高い評価を得た〔。赤星曰く、強化指定選手に選ばれたことで「もしかして、まだプロ入りの可能性があるのかもしれない」と思うようになったという〔。、シドニーオリンピック野球日本代表に選出。在職中にJR東日本の車掌の資格を取得したが、一度も乗務することなくドラフト会議で指名を受けることになる。
シドニーオリンピック終了後、ドラフト会議で野村の鶴の一声により阪神から4位指名を受けた〔サンケイスポーツ特別号、17頁。〕。当時の赤星は体が小さかった上に「打球が打撃ゲージの外に飛ばない」と言われるほど非力で〔、野村に対しスカウトは「足だけですよ」とコメントしたが、野村は「同点の9回に代走で使う」と答えた〔サンケイスポーツ特別号、64頁。〕〔赤星2010、106-107頁。〕。赤星は「オリンピックでレギュラーになれなかった僕がプロにいって活躍できるのか?」という思いにとらわれたものの、最終的には「クビになるのを恐れてプロに行かないという選択をするよりも、飛び込んでみてクビになったほうがいろんな意味で後悔しないだろう」という心境に至り、入団を決めた〔赤星2010、105-107頁。〕。
入団会見で赤星は、それまで中堅手のレギュラーだった新庄剛志FA移籍が決まった直後であったことを踏まえ、「新庄さんの穴を少しでも埋められるように頑張ります」と言うつもりであった。しかし実際には「新庄さんの穴はボクが埋めます」と宣言〔サンケイスポーツ特別号、18頁。〕〔赤星2010、107-108頁。〕。1位で入団した藤田太陽以上に話題を集めることになった〔。
阪神入団に際し赤星は、「『体が小さいとプロでやっていくのは絶対無理』という考え方をひっくり返したい」「体が小さくて悔しい思いをしている選手たちの代表として、体が小さくてもやれる人間はいるんだということをみんなに知らせたい」という決意を抱いていた〔赤星2008、151-152頁。〕。同時に、「問題は入れてもらえないから勝負できないことだったわけで、入ってしまえばこっちのもの」とも考えていた〔赤星2008、152頁。〕。プロ野球選手として成功を収めた後、赤星はプロを目指す野球選手が自分を見て「体が小さくても大丈夫」「赤星ができるんだったら、俺もプロになれるんとちゃうか」と思うことが一番うれしいことだと述べている〔赤星2008、154頁。〕。赤星はまた、「体が小さな選手が体が大きい選手に力で勝とうと思っても絶対に無理だが、動きのよさや速さを発揮することができれば絶対にプロの世界でもやっていける」とも述べている〔赤星2008、153頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤星憲広」の詳細全文を読む



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