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1793年10月20日の海戦 : ウィキペディア日本語版
1793年10月20日の海戦[1793ねんじゅうがつ20にちのかいせん]

1793年10月20日の海戦(Action of 20 October 1793)は、フランス革命戦争中に、英仏海峡を挟んでフランス側沿岸にある、バルフルール岬の沖合で行われた小規模の戦闘である。この年の2月に英仏の抗争が始まって間もなく、フランスのフリゲートが多数、英仏海峡でイギリスの商船を襲撃したため、シェルブール港を監視し、ここを母港とするフリゲートの、を阻止する目的でを指揮するが配置された。10月20日、ソーマレズはバルフルール岬沖でフランス艦の監視中、「レユニオン」とカッターの「エスペランス」が外洋から入港を試みていることを発見した。
ソーマレズはすぐさまフランス艦との交戦に移り、どうにか「レユニオン」を孤立させて、2時間以上砲撃戦を続けた。レユニオンの艦長フランソワ・A・デニアンは反撃を行わせたが、クレセントの艤装に小さな損害を与えた以外はほとんど効果がなく、一方で自艦はリギング・マストと艦体にひどく損傷を受け、80人以上、恐らくは120人ほどの死傷者を出していた。イギリス側の損害は、クレセント艦上の事故による1人の負傷にとどまった。結局デニアンは持ちこたえられず、28門フリゲートのが到着した時点で降伏を余儀なくされた。「レユニオン」は後に修理され、イギリス海軍で就役した。ソーマレズはこの軍功によりナイト爵を叙せられた
==歴史的背景==
1793年早春に、フランスイギリスの間に戦争が勃発した。フランス革命戦争が始まって1年が経過していた。フランス海軍はすでに革命の混乱と、革命後に士官クラスの職業軍人に苦しんでいた。一方イギリスは、1792年夏から戦闘準備を整えていた〔Woodman, p. 19〕。開戦後のフランス海軍は、イギリス商船を襲撃して貿易を混乱させることに重点を置き、複数のフリゲートを配置して、イギリス商船への襲撃作戦を展開した。英仏海峡では、コタンタン半島のシェルブール港を母港とする「レユニオン」と「セミヤント」が最も多くの商船を襲撃していた。2隻は薄暮と共にシェルブール港を出港し、夜の間に出くわした商船を拿捕して、早朝に帰港する短期間の出撃を行っていた〔James, p. 104〕。
シェルブール港からのフリゲートによる略奪行為に対抗するため、海軍本部は複数の軍艦を派遣してフランス沿岸の海上封鎖に従事させた。その中の1隻が、ソーマレズが指揮を執る「クレセント」で、ポーツマスからチャネル諸島を経て、コタンタン半島沖の任務に着任した〔、10月19日、ソーマレズはフランスのフリゲートの作戦行動パターンを把握し、バルフルール岬近くの海岸近くで待ち構えた。バルフルール岬は、コタンタン半島の東端に位置した岩礁の多い岬で、シェルブールからのフリゲートが出港または帰港する際の航路だった。10月20日の夜明け、「クレセント」の見張り役が、英仏海峡から岬の方に2隻の軍艦が近づいていて、そのうちの1隻は大型であると報告した。ソーマレズは、すぐに「クレセント」を、風をとらえて2隻へ進めさせ、すばやく2隻の側を攻撃した。風上に位置することで「クレセント」は自由に動くことができた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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