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1968年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第20回大会である。4月にニュルブルクリンクで開催された西ドイツGPで開幕し、モンツァで開催された最終戦イタリアGPまで、全10戦で争われた。 == シーズン概要 == フランスGP、カナダGP、日本GPがカレンダーから消え、この年の世界選手権は全10戦となった。250ccと500ccのレースが全てのグランプリで開催されたのに対し、50ccクラスは前半の5戦のみの開催となった。 シーズン開幕前の2月、ホンダはこの年のグランプリにワークスチームを送り込まないことを発表し、スズキもホンダの後を追うようにグランプリからの撤退を発表した〔『サーキットの軌跡 世界ロードレースGPの歴史』(p.90 - p.92)〕。前年、ホンダのマシンでタイトルを獲得したマイク・ヘイルウッドに対してホンダはマシンを貸し与えることを提案し、古巣のMVアグスタも再びヘイルウッドを迎え入れる意思を示したがヘイルウッドはグランプリから身を引くことを選んだため、250ccクラスと350ccクラスはチャンピオン不在のシーズンとなった〔『The 500cc World Champion』(p.51)〕。一方、スズキは50ccクラスのディフェンディングチャンピオンであるハンス=ゲオルグ・アンシャイトに対し、前年型のワークスマシンを使用することを許した〔『二輪グランプリ60年史』(p.86 - p.87)〕。 日本のメーカーの中でもヤマハはグランプリに留まり、フィル・リードとビル・アイビーのチームメイト同士が125ccと250ccの両クラスでハイレベルなタイトル争いを繰り広げたが、この2人の戦いは後に禍根を残すものとなってしまった。この時代は、有力なワークスチームが確実にタイトルを獲るためにチームオーダーによってレースの勝敗そのものをコントロールするということがごく普通に行われており、この年のヤマハも両クラスのタイトルを確実なものとするために125ccはリードに、250ccはアイビーにそれぞれタイトルを獲らせようとしていた。しかし、ヤマハもワークスを撤退させると予想していたリードはこの年がタイトル獲得の最後のチャンスだと考え、125ccに加えて250ccのタイトルも獲りにいったのである。思惑通りにダブルタイトルを獲得したリードだったが、リードのこの行為に激怒したアイビーは4輪レースへの転向を発表した〔『The 500cc World Champion』(p.63)〕。そしてリードの予想通りにヤマハもこの年限りでワークス活動を休止し、リードは以後ヤマハの市販マシンでグランプリを戦うがヤマハがリードに対してサポートすることはなく、リードの引退後も両者の関係は疎遠なままとなってしまっている〔『YAMAHA RACING GLORY Since 1955』(2009年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-133-2(p.101)〕。 この年、FIMは大掛かりなレギュレーションの変更を発表し、翌から順次各クラスの気筒数などが制限されることとなった〔コラム『世界GP制覇と夢の終焉』 - WGP参戦50周年記念スペシャルサイト|ヤマハ発動機株式会社 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1968年のロードレース世界選手権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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