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1997年のF1世界選手権は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第48回大会である。1997年3月9日にオーストラリアで開幕し、10月26日にスペインで開催される最終戦まで、全17戦で争われた。 == 概要 == === ウィリアムズ対フェラーリ === 前年の成績から、この年もウィリアムズ・ルノーの優位が予想されたが、フェラーリが対抗馬として浮上した。チャンピオン争いはウィリアムズのジャック・ヴィルヌーヴとフェラーリのミハエル・シューマッハが最後まで拮抗した戦いを繰り広げた。 ウィリアムズのマシンは依然最速だったが、チームはウェットレースのタイヤ選択などで判断ミスを犯した。ヴィルヌーヴは7勝10ポールポジションを記録したが、シーズン前半は優勝かリタイアという成績だった。新加入のハインツ=ハラルド・フレンツェンはサンマリノGPで初優勝したが、ヴィルヌーヴの速さの前に存在が霞がちだった。 フェラーリは旧ベネトンスタッフが加わりチーム力が向上し、ナンバー2ドライバーエディ・アーバインの貢献も目立った。フェラーリ2年目のミハエル・シューマッハは中盤戦に4勝を挙げポイント争いをリード。しかし終盤戦は不調に陥り、オーストリアGPは黄旗区間の追い越しペナルティーで後退。ルクセンブルクGPではスタート直後に弟のラルフ・シューマッハと絡みリタイアした。 ヴィルヌーヴはハンガリーGPとルクセンブルクGPの幸運な勝利でポイント首位に立った。しかし、日本GPフリー走行中に黄旗追い越しペナルティーを受け、レース後に失格処分となる。この結果、シューマッハの1点リードで最終戦ヨーロッパGPを迎えた。 ヨーロッパGP予選ではヴィルヌーヴ、シューマッハ、フレンツェンが史上初のポールポジション3者同タイムを記録(グリッドはタイムを記録した順)。レースは逃げるシューマッハをヴィルヌーヴが追い詰め、48周目のドライサックヘアピンでインを突く。外から被せたシューマッハと接触し、シューマッハはリタイア。ヴィルヌーヴはダメージを負ったマシンで走り切り、逆転でワールドチャンピオンに輝いた。シューマッハの行為に対しては、FIAがシーズン後にドライバーズランキングランキング2位剥奪(コンストラクターズポイントは有効)という厳罰を下した。シューマッハの個人成績(戦績や1997年に獲得した78ポイントなど)は残されることとなった。 この終盤2戦ではチームプレーを巡る思惑が交錯した。日本GPではアーバインが撹乱役を務めシューマッハの勝利をアシスト。ヨーロッパGPフリー走行ではヴィルヌーヴがアーバインのマナーに抗議する一幕があった。決勝では逆にフレンツェンがシューマッハの頭を抑え、ヴィルヌーヴの追い上げをアシスト。また、最終周にヴィルヌーヴがペースダウンしたのは、マクラーレンに勝たせるようチームが無線で指示したのではないかという論争が起こった。 この年、チャンピオンを争ったヴィルヌーヴとシューマッハは、偶然にも表彰台に同時に立つことは一度も無かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1997年のF1世界選手権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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