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2002年のロードレース世界選手権 : ウィキペディア日本語版
2002年のロードレース世界選手権[2002ねんのろーどれーすせかいせんしゅけん]

2002年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第54回大会である。
== シーズンの概要 ==

2002年、グランプリの最高峰クラスは990ccの4ストロークエンジンのマシンで争われるMotoGPクラスに生まれ変わった。もっとも、グリッド上の全てのマシンが一度に入れ替わったわけではなく、サテライトチームの多くは前年までの500cc2ストロークマシンの使用を余儀なくされ、ファクトリーから4ストロークのマシンが与えられたのはシーズンも終盤になってからであった。990ccのマシンの優位性は明らかであり、翌2003年シーズンが終わる頃にはMotoGPクラスから500ccのマシンは完全に姿を消すことになる。
ディフェンディングチャンピオンバレンティーノ・ロッシは、ホンダのニューマシンRC211Vを駆ってシーズン11勝を挙げ、リヤタイヤのトラブルによってリタイヤしたチェコGPを除く全てのレースで2位以上になるという手のつけられない強さを発揮した。ロッシがこの年獲得した355ポイントという数字は、1997年にミック・ドゥーハンが獲得した340ポイントを大きく上回る記録であった。
シーズン当初は2ストロークのNSR500で戦ったアレックス・バロスは、RC211Vが与えられた終盤の4戦で2勝を挙げ、他の2戦でも表彰台に登るという活躍を見せた。ホンダはバロスのこのパフォーマンスを忘れることなく、翌2003年のシーズン終了後、バロスはホンダのワークス・チームであるレプソル・ホンダに迎えられることになる。
スズキワークスはタイヤを前年までのミシュランからダンロップに変更してシーズンをスタートしたが、第3戦から再びミシュランにスイッチした〔MotoGP公式サイトNEWS『チーム・テレフォニカ・モビスター・スズキ、ミシュランにチェンジ』 〕。また、4ストロークでのレースにすることで参加メーカーの増加を促すというFIMの目論見通り、シーズン終盤のパシフィックGPからカワサキが参戦を開始し、既に4ストロークのスーパーバイクで成功を収めていたドゥカティも2003年からのMotoGP参戦を発表した〔MotoGP公式サイトNEWS『ドゥカティ、MotoGPマシンを披露!』 〕。
前年チャンピオンランキング2位がMotoGPクラスへのステップアップにより不在となった250ccクラスでは、前年3位の弱冠20歳マルコ・メランドリが9勝を挙げ、250ccクラス史上最年少のチャンピオンに輝いた〔250ccクラスチャンピオンの最年少記録は2004年にダニ・ペドロサが更新している。〕。
125ccクラスでは、アプリリアアルノー・ヴァンサンが、前年チャンピオンのマヌエル・ポジャーリを抑えてタイトルを獲得した。これにより、アプリリアは125cc・250ccの両クラスで、この年のライダース・タイトルとコンストラクターズ・タイトルを独占した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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