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2005年の中国における反日活動は、中華人民共和国で2005年に発生した反日デモ。3月下旬に反日署名運動として始まったが、4月に入って成都、北京、上海などでは一部の反日活動が破壊行為をともなう暴動に発展した。 == 概要 == 2001年に小泉純一郎首相が就任して以降、小泉首相の靖国神社参拝で中国との関係は悪化し、日中両国の首脳会談は中国により一方的に拒否されていた。これにより中国国内では反日感情が高まり、小泉首相への抗議がおこなわれた。「参拝中止という中国側のたび重なる要請を聞き入れず、過去を反省しない日本」という印象が中国内で広がっていた。 2004年7月に、サッカーのAFCアジアカップ2004が中国の重慶で行われたが、反日感情が剥き出しになり、日本のグループリーグから決勝までの数試合は、君が代演奏時や試合中で激しいブーイングや反日行為に晒された。また、勝利を喜ぶ日本人サポーターに罵声を浴びせたり、ゴミや食べ物が投げつけられ、インターネット上でも反日的な書き込みが相次いだ。 2005年3月に大韓民国で竹島問題(独島問題)を契機として盛り上がった反日運動を引き継ぐように、中国各地でも3月下旬ころから歴史教科書問題や日本の国連安保理常任理事国入り反対の署名活動が始まり、インターネットサイトや携帯メールなどで中国各地に拡大した。4月2日には、四川省成都で日系スーパーに対する暴動が発生、4月9日には北京で日本に対する大規模なデモの一部が暴徒化した。4月16日には上海でも日本に対するデモの一部が暴徒化した。 4月17日から18日にかけて町村信孝外相が北京を訪問し、事態について中国側の謝罪と賠償を求めた。中国政府は暴力行為には遺憾の意を表したが、「そもそもの原因は日本側にある」として謝罪と賠償については拒絶した。ただし、水面下での取引はあったとされ、4月19日中国指導部は無届デモ全面禁止を通達し、反日デモの嵐は収束に向かった。一方、この中国側の動きに呼応するように、日本では東シナ海海底ガス田問題について中国提案に譲歩することが発表された。また、4月22日インドネシアの首都ジャカルタで開催された国際会議で、小泉首相は異例に過去の日本の侵略や植民地支配についての謝罪を行い、翌日の胡錦涛国家主席との会談でも謝罪要求など中国側を刺激するような発言は一切行わなかった。小泉は、『私は(日本の常任理事国入りに)中国が反対しても韓国が反対しても、いつでも首脳会談を行う』と述べている。 4月23日以降は中国国内での反日運動は厳しく押さえ込まれ、徐々に収束へと向かった(ただし、中国本土以外に住む中国人は4月23日以降もデモを起こしており、予断は許されない状況でもあった)。日本の外務省から出された海外安全情報等によると、5月1日の労働節(メーデー)、5月4日の青年節(5・4運動)が、もっとも危険な日と警戒していた。 後に、国連安全保障理事会を拡大する日本など4カ国(G4)の「枠組み決議案」に対し、中国は拒否権を出して反対し、さらに中国にロシアが同調した。最終的に、ドイツの常任理事国入りに反対するアメリカの拒否権により、「枠組み決議案」は反対に終わった。 この反日感情には、靖国神社問題が背景にあったと思われる。靖国神社参拝を行わなかった福田康夫首相と胡錦涛主席との会談で、胡錦涛は日本の国連安全保障理事会の常任理事国入りに柔軟姿勢を示した。また対日穏健派の金大中前大統領も、常任理事国入りを支持していた。また同じく鳩山由紀夫首相の際に、サルコジ大統領は「世界第二の経済大国である日本が二次大戦の敗戦国であるという理由だけで常任理事国になっていないことはおかしい」と発言したが、デモは起きずネットユーザだけの批判だった。 この事件以降、日本国内では中国に根強い反日感情があることが知られ、中国に対する警戒心が生まれた。1992年に訪中した今上天皇は、温家宝首相による北京オリンピック開会式の招待を断った。さらに中国旅行の書籍では、中国の反日感情に気をつけるような記載が見られた。 翌年の小泉首相の靖国参拝に対しては、中国では反日感情の再燃を抑えるためにデモが封じ込められ、北京の日本大使館で30人ほどがデモを起こしたのみだったが、韓国では数千人が小泉首相の写真を燃やすデモが起きた。韓国政府は靖国神社の参拝問題について、A級戦犯が分祀されたとしても日本政府首脳らの参拝は受け入れられず、分祀は問題の根本的な解決にはならないと述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「2005年の中国における反日活動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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