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303高地の虐殺 : ウィキペディア日本語版
303高地の虐殺[さんびゃくさんこうちのぎゃくさつ]

303高地の虐殺(さんびゃくさんこうちのぎゃくさつ)とは、朝鮮戦争初期の1950年8月17日に、韓国慶尚北道漆谷郡倭館邑ウェグァンゆう)の丘(303高地)で行われた戦争犯罪事件。釜山橋頭堡の戦いの作戦行動中に朝鮮人民軍(北朝鮮軍)に捕らえられたアメリカ陸軍捕虜41人が、2日後に、北朝鮮軍の兵士によって機関銃で銃殺された。
において大邱近郊に展開していたアメリカ第1騎兵師団第5騎兵連隊第2大隊は、倭館北側の303高地において、洛東江を渡河してきた北朝鮮の軍勢に包囲された。アメリカ軍の兵員の大部分は、包囲網から脱出できたが、北朝鮮軍を韓国軍の加勢と誤認した迫撃砲小隊のひとつが、捕えられた。北朝鮮軍は、丘の上でアメリカ兵たちを捕虜とした後、当初は捕虜たちを洛東江の対岸に渡して戦闘地域から連れ去ろうとしたが、強力な反撃にさらされて実行はできなかった。やがてアメリカ軍が北朝鮮軍の前進を押し返した。北朝鮮軍は撤退を開始するにあたり、捕虜の連行によって撤退が遅れないよう、下士官のひとりが捕虜の銃殺を命令した。
この虐殺事件には、紛争当事者の双方から反応があった。アメリカ軍の司令官たちは、ラジオ放送や空中散布したリーフレットで、北朝鮮軍の司令官たちにこの残虐行為の責任があると非難した。北朝鮮軍の司令官たちは自軍の兵士による捕虜の取り扱いを憂慮し、敵軍捕虜の扱いについて、より厳格な基準を設けた。後に、303高地には、近くのキャンプ・キャロル(en)のアメリカ軍によって、虐殺の犠牲者の栄誉を讃える記念碑が設置された。
== 背景 ==

=== 朝鮮戦争勃発 ===
1950年6月25日朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による大韓民国(韓国)への侵攻により朝鮮戦争が勃発すると、国連は韓国側に立って紛争に介入することを決定した。国連の一員であるアメリカ合衆国は、北朝鮮の侵略を押し返し韓国の崩壊を防ぐため、地上部隊を朝鮮半島に派遣することになった。
最初に派遣された第24歩兵師団(en)は、圧倒的に優勢だった北朝鮮軍の侵攻の第一波を食い止め、援軍が到着するまで時間を稼ぐ遅滞戦闘を命じられていた。つまり、同師団は孤立無援状態で北朝鮮軍の前進を数週間遅滞させ、第1騎兵師団第7および第25歩兵師団、その他の第8軍の諸部隊が展開する時間を稼ぐことになっていた〔。しかし、第24師団の先頭に立っていたスミス支隊(Task Force Smith)は、アメリカ軍と北朝鮮軍の最初の直接戦闘となった7月5日烏山の戦いで大敗北を喫した。この敗北以降、ひと月にわたって第24師団は兵員も装備も優勢な北朝鮮軍の前に敗北を重ね、南へ後退した。師団を構成する各連隊は、鳥致院(en)、天安(en)、平澤(en)における一連の戦闘で、組織的な後退戦を継続した〔。第24師団は、大田の戦いでの最後の奮戦の後に壊滅したが、7月20日までは北朝鮮軍の前進を遅延させた。この時点までに、第8軍は、侵攻して来た北朝鮮軍とほぼ互角の戦闘部隊が揃い、国連軍部隊も連日新たに到着し、第8軍へ加わるようになっていた。
大田を陥落させた北朝鮮軍は釜山の全面包囲を試みはじめた。戦車と兵員数で優位に立つ北朝鮮側に対し、アメリカ軍と韓国軍は敗北を重ね、更に南へと退却を余儀なくされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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