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38度線 : ウィキペディア日本語版
38度線[38どせん]

38度線(38どせん、)は、本来は、第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれたアメリカ軍ソ連軍の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。大韓民国(韓国)では38線(、三八線)と呼んでいる。
韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独立から朝鮮戦争勃発までは、それらの国の境界線(国境)となっていた。朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。北緯38度線と軍事境界線は、の地点で交差する。
== 38度線の成立と朝鮮半島分断 ==
1945年8月9日、大日本帝国宣戦布告したソ連満州と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。この状況を受けてアメリカは対応を検討し、ソ連軍が単独で朝鮮半島を占領する事態を防ぐため、ソ連に対し半島の分割占領案を提示する事が決まった。8月10日から11日にかけて国務・陸軍・海軍調整委員会において「北緯38度線で分割する」という案が画定され、ハリー・S・トルーマン大統領の承認を受けた。この案はソ連側に提示され、8月16日にソ連はこれに同意する。8月17日にはによって38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏することが決定された。この命令はポツダム宣言を受諾した日本に伝達され、9月2日の降伏文書調印後に大本営によってこの方針が指令された。
38度線が境界となった理由には諸説がある。一つはアメリカ軍が軍事的な便宜の面から、暫定的な境界線として提示したというものである。8月10日から11日の会議の最中、ペンタゴンにおいて陸軍次官補は、アメリカ軍の明白な進駐限界線の画定をディーン・ラスクチャールズ・H・ボーンスティール3世大佐に命じた。二人は手元にあった小さな壁掛けの地図を参考にして限界線を北緯38度と決めた。二人は朝鮮半島の首都をアメリカ軍の占領区域に設定することが望ましいと考えており、38度線は朝鮮半島をちょうど二分する上に、ソウルが南半分に含まれるという理想的なものであった。二人がこの作業にかけたのは、わずか30分であった。
ほかには日本軍が関東軍大本営の管轄を38度線付近で分けており、管轄毎にソ連とアメリカに降伏したため、両国の占領区域が38度線となったという説もある〔関寛治「分断の責任-米ソ冷戦は何をもたらしたのかー」、『世界』一九八四年八月号、四九頁〕。ただし、8月9日の大陸命1389号で済州島をふくむ南朝鮮駐屯の第17方面軍の指揮権は8月10日午前6時より関東軍に移管されており、事実ではないと見られている。また古い研究では38度線は米ソが事前に合意していた線であるという主張もあるが、ポツダム会談などの連合国会談でそのような合意が成された事はない。また朝鮮軍として最後まで日本軍部隊として抵抗した朝鮮民族出身日本陸軍軍人らは当初から韓国軍(南朝鮮軍)設立に参加しており、戦後の自由主義政権での建国で一致していたとされ、その後の日韓交渉において朝鮮戦争の英雄であり、陸軍士官学校で専門教育を受けた日本軍高級将校だった朴正煕(パクチョンヒ・日本名高木正雄日本軍満州国駐屯軍出身)大統領が、自身の軍事独裁政権時代に戦前の反共主義教育の影響を語り、第二次大戦中は国際法に違反する非正規軍出身で、ソ連軍の傀儡である事はソウル市民から見ても明らかであった共産ゲリラ首領の金日成(ソ連領産まれである事以外は戦前誰も知らぬ存在であり、さらに「キム・イルソン」という名は伝説上の古代朝鮮史に登場する人名であり、本名であるかすら不明であった)ら共産主義者及び独裁を是とする共産主義政党への嫌悪感や、法治国家として教育を受けた日本軍将校出身者が多い韓国軍創始者内での強い敵意が、1945年のポツダム宣言受諾直後から朝鮮半島全域に渡って存在していた事を証言している。そして南北統一での体制選択選挙を一方的に拒否したのはソ連軍の権威によって平壌の一部を占領しつつあった朝鮮労働党関係者のみであったという。満州国と朝鮮半島南部を往復する業務に就いていた朴正煕は、戦前戦中の平壌市でも、京城(現ソウル)に代表される南部と同様に国民学校での公教育と共に、英米と同様の反共意識や日本内地同様に北部朝鮮においても法治国家としての意識が既に存在し、戦中は特に非合法かつ極左テロリスト扱いであった共産党への忌避感が朝鮮半島全域の社会全体の常識であった事も、併せて言及している。。
1945年8月15日、朝鮮半島と台湾島などを含む多民族国家であった大日本帝国政府は連合国軍によるポツダム宣言(米ソ両軍による日本領朝鮮半島の北緯38度線を境にした分割占領及び軍政化後の選挙実施を強制する条項を含む)を受諾し、1910年の日韓併合以来、毎年数十倍を誇る志願率で朝鮮人枠を設けていた日本軍将校に志願し、南方への日本軍進軍と共に、朝鮮系日本国籍者として第二次大戦を戦い続けてきた当時の朝鮮民族(朝鮮民族による東南アジアでの日本軍人としての活動は1980年代の大ヒット映画戦場のメリークリスマスに詳細な描写有り)は、フィリピン軍政下の連合国軍捕虜収容所における総責任者であった洪思翊中将のように、戦後連合国軍によって日本軍人扱いのB級戦犯として処刑された者も多い程であり、明治末期から約30年以上に渡り「朝鮮系日本人」としての活動を続けてきたために世間一般住民の感覚として、日本国のポツダム宣言受諾までは、そもそもごく限られた極左活動家以外は組織的な独立運動すら発生していなかった朝鮮半島では、敵軍であった連合国軍の元で独立する事が強制される事態に陥り、戸惑いと驚きが交叉していたとされる。呂運亨を代表とした「朝鮮建国準備委員会」(建準)、曺晩植を代表とした「五道中央行政委員会」が発足するなど、朝鮮人による建国の動きが高まっていたが、そもそもアメリカ軍到着に際して半強制的に組織された組織が多く、混乱を来たしていた。ポツダム宣言では南北を軍政化に置き、時期を指定せずに統一朝鮮政府を選ぶ自由選挙が規定されていたが、しかし統一政府の代表選挙の立候補資格を巡って、両組織の後ろ盾であるアメリカやソ連の利害対立が激化。特に戦前反共国家大日本帝国の一部であった事から、統一選挙が実施された場合に不利を承知のソ連軍によって設立された朝鮮労働党を中心とした北部朝鮮は、徹底的にボイコットを行い、南北が別々に統一選挙を行う異常事態となり、結果として1948年金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国と李承晩大統領とする大韓民国という2つの国家が、北緯38度線を境にして朝鮮半島に建国されたが、その後選挙をボイコットし続けた北部ソ連軍政地域では、次第に鉄道などのインフラもソ連軍及び北朝鮮軍により封鎖されて、日本統治時代には日満国境となっていた新義州市まで直通運転していた京義線などの南北を繋ぐ大動脈も、人為的に不通となった。1950年の北朝鮮による奇襲攻撃により朝鮮戦争が勃発し、この体制は崩れ去り、南北統一選挙も北朝鮮による一方的な拒否により実施されないまま全面戦争に至った。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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