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400フィート打線(400フィートだせん)は、南海ホークスの打線の愛称である。 == 概要 == 400フィートはメートルに換算すると約122メートルで、この飛距離があればスタンドインする(=本塁打になる)ということから名付けられた。 南海ホークスはパシフィック・リーグが発足した1950年から1956年までの7年間で6度のチーム200盗塁以上を記録した〔この間唯一200盗塁を下回った1951年も104試合で191盗塁を記録。日程編成の都合で南海が16試合未消化のままペナントレースが打ち切られたため、予定通り行われていれば7年連続チーム200盗塁以上となった可能性もあった。〕ほどの積極的な盗塁・走塁を駆使した機動力と、「100万ドルの内野陣」と呼ばれた内野の堅い守備を大きな特徴とし、この間に4度のパ・リーグ制覇を果たす。しかし、日本シリーズでは4度全て打力と投手力で勝る読売ジャイアンツ(巨人)に敗れた。 加えて1956年に盗塁数では南海を下回るも、打率、本塁打、打点のすべてでリーグ1位となった流線型打線を擁する西鉄ライオンズが巨人を打倒しての日本一を勝ち取ると、監督の鶴岡一人(当時は山本姓)はそれまでの機動力野球の方針を転換し、強打の打線の形成に着手した。同年のオフに機動力野球の象徴的存在であった木塚忠助と飯田徳治を放出し、野村克也、杉山光平、穴吹義雄、長谷川繁雄、寺田陽介といった打撃評価の高い選手の起用へシフトした。 翌1957年、チーム盗塁数は前年の238から102に激減。一方で野村が南海では1939年の鶴岡以来となる本塁打王を獲得して、チーム本塁打数では創設以来初めてリーグ1位となり、さらに1958年には打率、本塁打、打点のすべてでリーグ1位となる。投手力の差で西鉄の3連覇を許したが、打力では西鉄にひけを取らないチームができつつあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「400フィート打線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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