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500人広場( ピアッツァ・デイ・チンクエチェント)は、イタリア ローマの中心地区にある広場で、ローマ・テルミニ駅、ジョヴァンニ・ジョリッティ通り(Via Giovanni Giolitti)、マルサーラ通り(Via Marsala)とヴィッラ・ペレッティ広場(Largo di Villa Peretti)に囲まれた場所〔ローマ市役所公式ページ PIAZZA DEI CINQUECENTO 〕である。地名の由来は1887年ので圧倒的劣勢下で戦った“500人のイタリア軍人の犠牲者”を追悼するため命名〔された。それ以前は隣接するディオクレティアヌス浴場(Terme di Diocleziano)に因んでテルミニ広場(Piazza di Termini)と呼ばれていた。 1551年に作られた地図では、この付近は“Altissimus Romae Locus”と呼ばれており、ディオクレティアヌス帝やシクストゥス5世が作った人工の丘“Giustizia”であった〔Before the construction of the central railway station, the highest point on the left bank was an artificial hill called the monte della Giustizia, the work of Diocletian and of Sixtus V. It rose to the height of 73 metres, and bears the name of " altissimus Romae locus" in Bufalini's map (1551). RODOLFO LANCIANI, The ruins and excavations of ancient Rome 〕。1860年から1878年にかけてローマ・テルミニ駅の建設の為、この人工の丘は崩されて整地された。テルミニ駅前には500人のイタリア軍人犠牲者を追悼するため、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の敷地から発掘されたラムセス2世のオベリスクが建てられた。このことからこのオベリスクはドガリのオベリスクと呼ばれ、駅前広場は500人広場と呼ばれるようになった〔Shoji Okamoto Terme Obelisk 〕。1924年、500人広場の改修の為、このオベリスクは共和国広場との間にある小さな公園に移設され、ディオクレティアヌス浴場に因んで“テルメ・オベリスク”(Terme Obelisk)と呼ばれるようになった。 == 周辺 == 500人広場の北端(マルサーラ通り)沿いには古代ローマ時代のセルウィウス城壁が残存している。広場の北西側は306年に建てられたディオクレティアヌス浴場跡で、現在はやローマ国立博物館の分館となっている。また、広場の南西側にはローマ国立博物館の本館であるマッシモ宮となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「500人広場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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