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5月3日憲法[ごがつみっかけんぽう]
5月3日憲法(ごがつみっかけんぽう、)は、ポーランド・リトアニア共和国(以下「ポーランド」)の憲法である。1791年5月3日に議会(セイム)で採択されたことからこの名がある。 近代的な成文国民憲法としてヨーロッパで最初のものであり、世界でも米国憲法に次ぐ2番目のものとして知られている〔社会学者ジョン・マーコフは、近代的な成文国民憲法の制定を民主化を計る試金石のひとつとして、「ヨーロッパ諸国の中でアメリカの手本に最初に倣った国は、1791年のポーランドだった」と記述している。()〕〔()〕〔()〕〔3番目は5月3日憲法の4ヶ月後に制定されたフランスの1791年憲法であった〕。また、第6章から第8章にわたり、議会(立法)・国王(行政)・裁判所(司法)の「三権分立」の原則および「法の支配」を明示しており、国王には立法権がない。実際の行政は国王に代わり議会の代表者である首相が取り仕切る「国王の評議会」が行い、これが現在の内閣に相当する(「立憲君主制」と「議院内閣制」)。名目上、国軍の最高司令官は国王であるが、大法官(カンツェシュ)は議会の代表者である首相であると同時に国軍の制服組の最高位である大元帥(ヘトマン)の職を兼ねており、実質上の国軍の最高司令官は国王ではなく首相。戦争も行政の一環であると認識されている。このように、現代の基準に照らしてもきわめて先進的で、かつ完成度の高い民主憲法であった。 5月3日憲法は、ポーランドの独特の伝統である「貴族共和制」における政治的欠点を取り除くことを目的に制定された。この憲法では、市民と貴族(シュラフタ)とを政治的に平等と定めた。また、農民を政府の庇護下に位置づけ〔第4条(農民階級):「我々は、耕作を行う人々を、法と国家政府の庇護下に受け入れる…(中略)…これらの人々こそ我が国で最大の階層であり、したがって最も力を持っている…」〕、特にリトアニア、ウクライナ、プロイセンなど、共和国の東部地域でその悪化が見られた農奴制という悪習の軽減を図った。さらに、議会の諸制度のうち、弊害が多かったものを廃止した。例えば立法における任意拒否権(リベルム・ヴェト)〔ラテン語:リベルム・ヴェト()として欧米において広く知られる〕も廃止されたが、かつてはこの任意拒否権によって、利害関係者や外国から買収された議員が議会で立法された法律を簡単に取り消してしまっていた。5月3日憲法は、復古的な有力者達が暗躍する当時の無政府状態を、比較的平等主義かつ民主主義な立憲君主制で取って代えようとしていた〔()〕。憲法の文面はリトアニア語にも翻訳された〔Lietuvos TSR istorija. T. 1: Nuo seniausių laikų iki 1791 metų. - 2 leid. Vilnius, 1986, p. 222. 翻訳のオリジナル原稿は()〕。 現代の基準に照らしてさえもきわめて民主的かつ啓蒙的といえるこの5月3日憲法の採択は当時のヨーロッパ世界では「危険思想」と判断され、ポーランドの周辺国の警戒心を惹きつけ戦争を招くことになった。ポーランドは、1792年にエカチェリーナ2世のロシア帝国から攻撃を受け、同盟を結んでいたフリードリヒ・ヴィルヘルム2世のプロイセンに裏切られたこともあり、敗戦した。時代を経て極端なまでに拡大してしまった自由主義(「黄金の自由」)を制限し公共の福祉に相当する思想を強く押し出したこの憲法により既得権を失うことを恐れる大貴族の一部は、こともあろうにロシアと結託してタルゴヴィツァ連盟を結成、「我々の自由と財産」を守るためロシア軍を共和国内に呼び込んだのであった。敗戦の結果、2回目のポーランド分割が行われ、領土の一部をロシア帝国とプロイセンに奪われることになった。1795年の3回目のポーランド分割によってポーランドは消滅したが、復活するまでの123年間、5月3日憲法は民主主義によるポーランドの主権回復闘争を導くかがり火となった。イグナツィ・ポトツキとフーゴ・コウォンタイ〔(Hugo Kołłątaj)〕の共著の言葉によると、この憲法は「亡くなった母国の最後の遺言」だった。 == 歴史 ==
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