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B.J.ライアン(Robert Victor Ryan, Jr , 1975年12月28日 - )は、メジャーリーグベースボールの投手。左投左打。アメリカ合衆国ルイジアナ州ボージャーシティ出身。現在はフリーエージェント。 == 経歴 == にドラフト17巡目でシンシナティ・レッズに指名されて入団。翌7月28日にメジャーデビューを果たすが、1試合に登板しただけで、同年の7月31日にボルチモア・オリオールズにトレードされる。移籍先では13試合に投げて防御率2.95の好成績を残す。 翌開幕から5月2日までの1失点に抑えていたが、それ以後の9試合の登板で16自責点の成績で、6月9日にマイナーへ降格した。その後マイナーでは14試合に登板し、フューチャーズゲームに投げてはいないが選出されている〔。7月30日にメジャーへ復帰し、新人投手としてリーグ4位の42試合に登板したが、防御率は5.91に終わった〔。 メジャーで1年を通してプレーをしたはチームでバディ・グルームの70試合に次ぐ61試合に登板し、5月16日にメジャー初セーブを記録した。は67試合に登板した。 に一気に飛躍。ティッピー・マルティネス(1982年)の球団記録に並ぶ76試合に登板し、防御率も前年の4.68から3.40まで下げ、奪三振率は11.25でリーグ2位。も好調を続け、昨年記録した球団タイ記録と同じ76試合に登板。防御率は2.28まで下がった。リリーフとして122奪三振を記録し、奪三振率は昨年を上回り、アーマンド・ベニテス(1997年 13.01)に次ぐ球団史上2位となる12.62。5月1日の対デトロイト・タイガース戦では、打者に対して1球も投げずに降板し、勝利投手になるという珍しい記録を残している。1-2と1点を追う7回2死1塁で登板すると、初球を投げる前に1塁走者だったオマー・インファンテを牽制球で刺してチェンジ、直後に味方打線が3点を奪い逆転し、残る8回と9回を別の投手が引き継いでリードを守りきったため、メジャーリーグ史上2人目〔シカゴ・ホワイトソックスのニック・アルトロックが1906年に達成したが、詳しいデータが残されておらず、日付・対戦相手不明となっている。9回表二死満塁で登板し、牽制球でチェンジ後、味方がサヨナラ打を打ち勝利投手になったとされている。このためB.J.ライアンの記録が初記録だとする説もある。〕の打者に対して1球も投げずに勝利投手になった(0球勝利)。 続くは、コントロールが定まらなかったホルヘ・フリオに代わり、抑え投手としてシーズンを迎えると、あれよあれよのピッチングを見せて36セーブをマーク。一躍オリオールズのクローザーに躍り出たかに見えたが、同年オフにフリーエージェントとなり、同年11月に5年総額4,700万ドルでブルージェイズへ移籍。 もクローザーとしてしっかりと役割を果たし、リーグ3位となる38セーブをマーク。しかも、防御率は1.37という驚異的な数字で、その数字はあのニューヨーク・ヤンキースの抑えの切り札である大投手・マリアノ・リベラをも上回る数字だった(リベラの防御率は1.80)。また、この年の38セーブは、ブルージェイズ史上4人目の年間35セーブ達成者となる快挙であった。 しかし、はわずか5試合の登板に終わった。4月14日の登板で4失点で救援失敗。翌日に左ヒジ痛が発覚して故障者リスト入り。予想以上に重症でトミー・ジョン手術を受けた。 7月8日にブルージェイズから解雇される。7月16日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。しかし、メジャー昇格を果たせないまま8月5日に解雇された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「B.J.ライアン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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