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C作戦 : ウィキペディア日本語版
香港の戦い[ほんこんのたたかい]

香港の戦い(ほんこんのたたかい、Battle of Hong Kong, 1941年12月8日 - 12月25日)は、太平洋戦争大東亜戦争)緒戦の香港における、日本軍と香港を植民地としていたイギリス軍の戦い。日本側作戦名は「C作戦」。
日本軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。日本軍はわずか18日間で香港攻略を完了した。
== 背景 ==
香港は、1841年のアヘン戦争の際にイギリスが占領し、1842年清国との間で結ばれた南京条約において香港島がイギリスの領土となり、九龍半島及び新界一帯が1898年清国との条約で99か年間の租借地となっていた。蒋介石率いる中華民国となってもその状況は継続され、1941年当時香港はイギリスが極東に持つ唯一の海軍基地であった。
満州事変を契機にイギリスは香港の防備の強化を決定し、1936年に九龍半島中央部一帯の要塞線(イギリス名:ジン・ドリンカーズ・ライン)が完成した。1937年に日中戦争支那事変)が勃発すると、香港は中華民国が諸外国との連絡を維持するための窓口となり、物資の中継基地あるいは宣伝謀略の基地として重要な地位を占め、中国軍と戦う日本軍にとっては目障りな存在となっていた。
イギリス領香港は九龍半島と香港島からなっていた。九龍半島は東西30キロ、南北30キロ。香港島は東西12キロ、南北11キロ。いずれも大部分は複雑な地形を有する山塊であった。両者を隔てるヴィクトリア港は平均幅約2キロ、最短地点では幅400メートルの海峡であった。九龍半島正面の要塞線は、城門貯水池以南の高地に沿った数線のトーチカ陣地をもって構成され、海岸にも防御設備が構築されていた。要塞内には啓徳飛行場があった。開戦時の人口は175万、うちイギリス人を中心とした西洋人は2万。さらに中国大陸からの避難民も流入していた。この過密な人口への水道水の供給が最大の弱点であった。
1938年、日本軍は広東を攻略し、香港周辺の制空権制海権は完全に日本軍のものとなった。イギリスは香港の海軍基地としての利用を断念したが、それでも日本との戦争となればできるだけ長く抵抗を続ける方針を固めていた〔『戦史叢書 香港・長沙作戦』, p.6〕。1940年6月、日本軍は宝安県を攻略しイギリスと中国との国境を完全に封鎖、強力な要塞を擁する香港攻略を視野に入れて攻城重砲を動員、7月15日にはそれら重砲を主力とする直轄の軍砲兵たる第1砲兵司令部(司令官:北島驥子雄中将)を設置、帝国陸軍最大の重砲兵団である第1砲兵隊を編成し、また担当師団としては第38師団が予定され、国境封鎖と訓練にあたった。1941年11月6日、南方作戦準備発令とともに香港攻略準備が発せられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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