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DFAレコード : ウィキペディア日本語版
DFAレコーズ

DFAレコーズDFA Records) は、アメリカニューヨークレコードレーベルプロデューサーチーム2001年に設立されたインディーレーベルで、2000年代前半にダンス・パンクを広めたレーベルとして知られている。扱っているジャンルはポストパンク系のバンドからダンス・ミュージックエクスペリメンタル系まで多岐にわたる。レーベル名のDFAはDeath From Aboveの頭文字からとられている。
== 来歴 ==
1990年代後半、プロデュース業や自分のパンクバンドで活動していたジェームス・マーフィーと、イギリスの音楽プロジェクト「アンクル」に参加していたティム・ゴールズワージーがのアルバム製作中に出会う〔Snoozer #035, 2003, P102-P107.〕。意気投合した2人は共通の目標となったロックとダンスミュージックのクロスオーバーを目指し、マンハッタンローワー・イースト・サイドのクラブでパーティーを始めるようになる。
1999年、2人はプロデューサーチームThe DFAを結成しプロデュース業を始めた。2001年春、後にレーベルのマネージャーとなるジョナサン・ガルキンとバーで出会ったジェームスは、彼を自分のDJプレイに招待しザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」やザ・フアン・マクリーンの「By the Time I Get to Venus」を聴かせた。心を奪われたジョナサンはジェームスたちのシーンにのめりこむようになり、勤めていたイベントプロデュース会社を辞めることにする。
2001年9月1日、3人はニューヨークでDFAレコーズを立ち上げた〔。また、2001年6月にプロデューサーチームThe DFAとしてレディオ4のシングル「ダンス・トゥ・ジ・アンダーグラウンド」と翌年のアルバム『ゴッサム!』をプロデュースし話題となる〔。
2002年、DFAはザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」をリリースする。この曲はNMESPIN誌がこの年のベストソングの一つに選ぶなどヒットする。後に音楽メディアが発表した2000年代の名曲リストではNMEで6位、ピッチフォークで16位、Resident Advisorで34位、ローリング・ストーン誌で53位に選ばれた。7月、ジェームスのプロジェクトであるLCDサウンドシステムの「ルージング・マイ・エッジ」をリリースする。この曲もNMEやSPIN誌がこの年のベストソングの一つに選ぶなどヒットする。
2000年代の名曲リストではResident Advisorで7位、ピッチフォークで13位、NMEで29位、ローリング・ストーン誌で37位に選ばれた〔〔〔〔。一連のリリースでDFAが提示したのはパンクポストパンクのサウンドとダンスミュージックを合わせたダンス・パンクと呼ばれるもので、当時話題になっていたエレクトロクラッシュや、ザ・ストロークスを発端にするポストパンク・リバイバルの流れと相まって世界に広まっていった。
2003年9月、ザ・ラプチャーのデビューアルバム『エコーズ』をリリース、全英アルバムチャートで32位を記録する。アルバムの発売に合わせて再発売された「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」は全英シングルチャートで27位を記録する。この年のベストアルバムにピッチフォークが1位に選んだ他、NME、SPIN、Q誌などのランキングにも名を列ねた。
2005年1月、LCDサウンドシステムのデビューアルバム『LCDサウンドシステム』をリリース、全英20位を記録する。収録曲「ダフト・パンク・イズ・プレイング・アット・マイ・ハウス」は全英29位を記録する。アルバムは音楽メディアが発表した2000年代の名盤リストにてResident Advisorで5位、ピッチフォークで113位に選ばれている。また「ダフト・パンク・イズ・プレイング・アット・マイ・ハウス」はローリング・ストーンが発表した2000年代のベストソングのリストで78位に選ばれた。アルバム『LCDサウンドシステム』と収録曲「ダフト・パンク・イズ・プレイング・アット・マイ・ハウス」は第48回グラミー賞の最優秀エレクトリック/ダンス・アルバム賞と最優秀ダンス・レコーディング賞にノミネートされた。
2007年3月、LCDサウンドシステムの2ndアルバム『サウンド・オブ・シルバー』をリリース。全英アルバムチャートで28位を記録する〔。音楽メディアが発表したこの年のベストアルバムのリストではUncut、Drowned In Sound、ガーディアンで1位、ピッチフォークで2位、A.V. Clubで4位、Resident Advisorで5位、ローリング・ストーンで7位、NMEで11位に選ばれた。またこの年のベストソングのリストでは収録曲「オール・マイ・フレンズ」がピッチフォーク、ガーディアンで1位、タイムで4位、ローリング・ストーンで20位に選ばれた。さらに後年、音楽メディアが発表した2000年代のベストアルバムのリストではNMEで11位、ローリング・ストーンで12位、ピッチフォークで17位、Resident Advisorで23位に選ばれている〔。
また2000年代のベストソングのリストでは「オール・マイ・フレンズ」がピッチフォークで2位、ローリング・ストーンで41位に選ばれている。またこのアルバムから同じく「サムワン・グレート」がピッチフォークで22位、Resident Advisorで41位に選ばれている。アルバム『サウンド・オブ・シルバー』は第50回グラミー賞の最優秀エレクトリック/ダンス・アルバム賞にノミネートされた。同年、アメリカ以外の地域の作品をリリースする姉妹レーベルDeath From Abroadを創設する。
2008年3月、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアのデビューアルバム『Hercules and Love Affair』をリリース、全英31位を記録する。このアルバムと収録曲「Blind」は多くの音楽メディアに年間ベストの1つに選ばれた。後年発表された2000年代の名盤リストではResident Advisorが14位に選んだ。また「Blind」は2000年代の名曲リストでピッチフォークとResident Advisorに18位に選ばれている〔。
2009年11月、Death From Abroadからゆらゆら帝国の11thアルバム『空洞です』がアメリカでリリースされる。収録曲「おはようまだやろう」がFACT誌の年間ベストトラックの1つに選ばれる。
2010年5月、LCDサウンドシステムの3rdアルバム『ディス・イズ・ハプニング』をリリースする。アルバムは全米アルバムチャートで10位、全英アルバムチャートで7位を記録する〔。この年のベストアルバムのリストではPaste、No Ripcordで1位、ピッチフォークで2位、タイムで3位、SPIN、NME、A.V. Clubで4位、musicOMH、PopMattersで6位、Uncut、Drowned in Soundで9位、ローリング・ストーンで10位に選ばれた。またベストソングのリストでは収録曲「アイ・キャン・チェンジ」がピッチフォークで3位、ローリング・ストーンで17位、NMEで23位に選ばれた。この年、創設者であるティムがレーベルを離れている〔Snoozer #078, 2010, P116-P119.〕。
2011年4月、LCDサウンドシステムはラストライブを行ない活動を終了した。9月、一時DFAレコーズを離れていたザ・ラプチャーが復帰し3rdアルバム『イン・ザ・グレース・オブ・ユア・ラブ』をリリース。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「DFAレコーズ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 DFA Records 」があります。



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