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FS作戦(FSさくせん)は、第二次世界大戦中に計画された日本の作戦である。米豪分断のためにフィジー・サモア方面に進攻を計画したが、MI作戦で空母4隻を失った影響で中止された。 == 経緯 == 1942年4月、第二段作戦を立案する軍令部では「FS作戦」を計画していた。これは、フィジー、サモアおよびニューカレドニアを占領することにより、南方戦線におけるオーストラリアの脅威を排除するとともに、アメリカ(ハワイ諸島)とオーストラリアの間のシーレーンを遮断することでオーストラリアを孤立させ、同国をイギリス連邦から脱落させる、という作戦構想である。しかし、連合艦隊がハワイ攻略のためにミッドウェー作戦を主張し、軍令部と対立した。 軍令部航空参謀三代辰吉は、敵の大型機がハワイから支援可能なのに対し日本は基地航空部隊の能力から付近の索敵ができないこと、攻略して敵の艦隊を誘い出し決戦すると言うが相手は不利ならば他にも手があり出てこないであろうこと、ミッドウェーを取れても敵の艦隊がある限り確保できないこと、FS作戦で西から攻めれば敵の空母は出てくるしミッドウェーより容易であることが理由だったという〔千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫25-27頁〕。また、「オーストラリアを本拠地にして反撃されるのを防ぐため、ニューカレドニアはじめできれば豪州北東一部占領する計画。陸軍がうんと言わず引っこめた」「フィジー、サモアまで手を出さずその辺を抑えれば補給を断ち攻撃して米豪を遮断する」と答えている〔戸高一成『海軍反省会3』PHP研究所 210-211頁〕。これに対し、連合艦隊航空参謀三和義勇は「フィジー方面の作戦に関し、軍令部側相当異論あるが如し。何れも妄論に近し。特に同方面に依り、米豪交通を遮断し得と考へるは、子供の議論なり。」と日記に残している〔戦史叢書43ミッドウェー海戦44頁〕。曽我清少尉は「日本はアメリカにとてもかなわないと言いながら開戦するとオーストラリアを取らないとダメと大言壮語している」「ここまでとらなきゃいかん、とったらここからやられるからまたここはいかんという、富岡さんや三代さんなんかは敵を知らず己を知らなかった」と戦後批判している〔戸高一成『海軍反省会3』PHP研究所 210-211頁〕。 最終的に連合艦隊も歩み寄りニューカレドニア、フィジーは攻略確保しサモアは連合艦隊長官山本五十六の意向で攻略、破壊後は引き上げる計画になった〔戦史叢書43ミッドウェー海戦44-45頁〕。日本海軍が日本陸軍に対してオーストラリア北岸地域への進攻と占領を提案したところ、必要となる陸上兵力が増える可能性から必要性を認められながらも拒否され、FS作戦の場合は兵力が少なくてすむことから実施が決定された。しかし、連合艦隊司令部はこの作戦には、第一艦隊の補給限界能力を超える事と占領後の維持が困難である事から、終始反対であった。 1942年5月19日、大海令第十九号を発令。 # 連合艦隊司令長官は第十七軍司令官と協同し「ニューカレドニア」「フィジー」諸島及「サモア」諸島方面の要地を攻略し敵の主要根拠地を覆滅すべし。 # 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。 1942年1月23日に日本軍はラバウルを占領しており、5月3日にはソロモン諸島のツラギ島を攻略した。同年8月のフロリダ諸島の戦いで失陥するまで水上偵察機基地として使用された)。しかし、5月珊瑚海海戦でアメリカ軍の妨害を受けポートモレスビー攻略(MO作戦)は失敗し、さらに6月のミッドウェー海戦で空母4隻を失ったため、6月7日にFS作戦の2ヶ月延期を決定した。 その後、米豪分断作戦を機動部隊を使わずに進めるため基地航空部隊をガダルカナル島に進出させることとし、第4艦隊によるソロモン・ガダルカナル飛行場の建設の目処がついたことから、1942年7月11日、大海令二十号を発令。「大海令第十八号に基く連合艦隊司令長官の「ミッドウェイ」島攻略及大海令第十九号に基く連合艦隊司令長官の「ニューカレドニア」「フィジー」諸島並に「サモア」諸島方面要地攻略の任務を解く。」これにより同作戦の中止が正式決定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「FS作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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