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フレデリック・ウォーリントン・イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake, 1856年 - 1905年2月18日)は、アメリカ合衆国出身の英語教育家、慶應義塾教員、来日外国人〔お雇い外国人について調べる 東京大学附属図書館〕。フランク・ウォーリントン・イーストレイク(Frank Warrington Eastlake)とも。 言語学博士であり、23カ国語に精通し、「博言博士」の名で知られた。日本人女性の太田なをみと結婚し、東湖と号した。 == 経歴 == アメリカ合衆国ニュージャージー州に生まれる。1860年(万延元年)、父ウィリアム・クラーク・イーストレイク(日本の近代歯科医学の父と呼ばれる歯科医)に伴われて来日。5歳でラテン語、ギリシャ語、フランス語、ドイツ語を、8歳の時に父に従って清国に行きスペイン語を学ぶ。米国に帰り、12歳でドイツのギムナジウムに入学。後にパリに移って医学、法学を修め、ベルリン大学で言語学の博士号を得た。さらにアッシリア、エジプトを遊歴して現地の言語を究めた後、香港に渡って3年間滞在、その間にインドを訪れてサンスクリット語、アラビア語にも親しんだ。 1881年(明治14年)に再び来日。1885年(明治18年)、元旗本の太田信四郎貞興の娘である日本人女性、太田ナヲミと結婚する。当時は外国人が居留地以外に住むことは禁じられていたが、福澤諭吉の好意により福澤名義で東京の一番町12番地に家を借り、居を構える。1886年(明治19年)から外国人教師の一員として慶應義塾で英文学講師となる〔紀要『近代日本研究』 慶應義塾福澤研究センター, 1993年〕。その他、『ジャパンメール』(後に『ジャパンタイムズ』と合併)などの新聞記者、教育者として活躍。妻ナヲミとの間には三男四女をもうける。 1888年(明治21年)、英学者磯辺弥一郎と共に国民英学会を設立する。のちに磯辺と不和になり、1891年(明治24年)、国民英学会から分裂して日本英学院を設立するも、経営に失敗する。このため、1896年(明治29年)に斎藤秀三郎と手を組んで正則英語学校の設立に加わり、教鞭をとった。 日本語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語は言文ともに自国語並み、英語は古代、中世、近代と三様に語り分けた。 『ウェブスター氏新刊大辞書和譯字彙』(三省堂刊)など英語辞書の和訳や、『英和比較英文法十講』など英文法書の執筆に寄与した。その他の著書に『香港史』、『日本教会史』、『日本刀剣史』、『勇敢な日本』などがある。 1905年(明治38年)2月18日、流行性感冒をこじらせて急性肺炎で病没。遺体は青山外人墓地に葬られた。青山外人墓地に墓碑と記念碑がある。 息子のローランド・パスカル・イーストレイクは教育者として、慶應義塾大学で教鞭をとった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレデリック・イーストレイク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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