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GP55船団(GP55せんだん)は、太平洋戦争中期の1943年6月に、シドニーからブリスベンへ運航された連合国軍の護送船団である。当時、オーストラリア東海域で一連の通商破壊を実行中だった日本潜水艦に襲撃され、輸送船2隻が沈没・大破する損害を受けた。同船団は日本潜水艦の襲撃を警戒して従来の2倍の数の護衛艦が付いていたが、被害を防げなかった。同船団の被害は、オーストラリア東海域における日本潜水艦による連合国艦船被害の最後の事例となった。 == 背景 == 太平洋戦争前半、日本海軍は、連合国側の反撃拠点の一つとして警戒するオーストラリア近海にも潜水艦を派遣した。日本海軍は、1942年(昭和17年)5月に特殊潜航艇によるシドニー港攻撃後、母艦役の潜水艦5隻によりオーストラリア東岸での最初の通商破壊を実施し、5月末から6月中旬までの作戦で船舶5隻撃沈・3隻撃破の戦果を上げた〔防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、164-165頁。〕。これは、1940年(昭和15年)12月にドイツ仮装巡洋艦「オリオン」「コメート」がナウルを襲撃して以来、18ヶ月ぶりのオーストラリア統治領域内でのオーストラリア商船の被害であった〔Gill (1968) , p. 75〕。 オーストラリア海軍は日本潜水艦による被害発生に対応し、1942年6月に主要近海航路における護送船団の導入を決定した。CO船団(ニューカッスル発・メルボルン行)とその逆航路にあたるOC船団(メルボルン発・ニューカッスル行)、PG船団(ブリスベン発・シドニー行)とその逆航路にあたるGP船団(シドニー発・ブリスベン行)の各護送船団が設定され、1200トン以上・速力12ノット以下の商船はこれらの護送船団に加入することが命じられた〔Gill (1968) , p. 77〕。OC船団を除く各船団には2隻以上の対潜護衛艦が付され、対潜航空機による護衛も行うものとされた〔。他方12ノット以上の比較的高速な船と1200トン未満の小型船は単独航海を許されたが、グレート・バリア・リーフの内側を航行中のとき以外、沿岸200海里以内の海域では対潜警戒用の之字運動を行うよう指導された〔。ほかにタスマニア島方面の航路についても別の船団規則が定められている。最初の近海護送船団であるCO1船団(輸送船9隻・護衛艦2隻)とGP1船団(輸送船5隻・護衛艦2隻)は、それぞれ6月8日に出航した〔。ただし、護送船団といえど完璧に安全ではなく、6月11日出航のCO2船団(輸送船8隻・護衛艦2隻)は、日本潜水艦「伊24」(前述の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃参加艦)の襲撃により輸送船1隻を失っている〔Gill (1968) , p. 78〕。 日本海軍は、1942年6月22日に大海指第107号を発して潜水艦の大半を投じたインド洋・オーストラリア近海での海上交通破壊を企図したが、同年8月に生起したガダルカナル島の戦いに潜水艦主力が振り向けられたため、実現しなかった〔防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、169-170頁。〕。しかし、ガダルカナル島の戦いが日本軍の敗北に終わった1943年(昭和18年)初頭になると、日本海軍は、オーストラリアからソロモン諸島・ニューギニア方面への増援部隊を阻止するため、オーストラリア方面での潜水艦による海上交通破壊を再開した。まず、同年1月に潜水艦「伊21」がオーストラリア東岸へ出撃し、オーストラリア鉱石船「アイロン・ナイト」(en, 4812トン )など商船5-6隻を撃沈破した。同年3月13日には「伊6」がブリスベン沖で機雷を敷設し、「伊26」もビスマルク海海戦での溺者救助後にオーストラリア東岸に進出して商船2隻を撃沈した〔防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、228頁。〕。3月中旬には第三潜水戦隊(三潜戦)の潜水艦5隻の投入が決まり、4月10日に戦隊旗艦「伊11」以下「伊177」「伊178」「伊180」がトラック泊地を出撃、5月16日には「伊174」が続いた。三潜戦は5月末までに、オーストラリア病院船「セントー」(en)を含む船舶5隻を撃沈、2隻を撃破した〔防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、229頁。〕。 オーストラリア政府は「伊21」による被害で日本潜水艦の活動再開に気付いた。1943年2月9日に開かれたオーストラリア政府の戦争諮問委員会(en)では、前日に鉱石船「アイロン・ナイト」がOC68船団(輸送船10隻・護衛艦2隻)に加入して護衛されていたにもかかわらず撃沈された事例〔が議題に上った。席上で軍需海運省(仮訳::en:Department of Supply and Shipping)のジャック・ビーズリー(en)大臣は、オーストラリア沿岸での鉄鉱石運搬がすでに困難な状態であると訴えた〔。オーストラリア海軍参謀長ガイ・ロイル(en)大将は、同船団の編制が輸送船10隻に対して護衛艦がコルベット2隻のみであったことが被害原因と考えられるが、現有戦力で護衛艦を増強するには船団の運行本数を減らすことが唯一の方策であり、さらに被害が拡大するようならそのような策を検討すべきであるとの見解を述べた〔。その後も上記のとおり日本潜水艦による被害が続出したのを受けて、この護送船団の集約による護衛強化策は実行に移された。同年5月13日の戦争諮問委員会において、ロイル海軍参謀長は、従来の2個船団を1個船団に集約して1個船団あたりの護衛艦を2倍の4隻に増強したことを報告し、それが現有戦力で最善の防御であると説明した〔Gill (1968) , p. 257〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「GP55船団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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