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J・B・プリーストリー(ジョン・ボイントン・プリーストリーOM、John Boynton Priestley, OM, 1894年9月13日 - 1984年8月14日)は、イングランドの著作家、劇作家、司会者。 == 生涯 == プリーストリーは、本人曰く、ブラッドフォードの「極端に立派な」郊外で生まれた。父親は教師で、母親は若くして亡くなった。グラマースクール卒業後、生まれ故郷でウール取引に従事したが、作家になりたい野心があった。ブランドンの思い出は、南に移り住んだ後に書かれた作品の多くに現れる。最初に勤めたスワン・アーケードのようなヴィクトリア朝建築の宅地開発業者による破壊を、老人となったプリーストリーは遺憾に思った。 第一次世界大戦中、プリーストリーは従軍し、デューク・オブ・ウェリントン連隊(Duke of Wellington's Regiment)第10大隊に入った。1916年、迫撃砲によって負傷。除隊後、ケンブリッジ大学トリニティ・ホールで学んだ。30歳になった頃には、プリーストリーはユーモア作家ならびに批評家として認められていた。1927年の小説『Benighted』はジェイムズ・ホエール監督によって映画化された(『魔の家(The Old Dark House)』1932年)。最初のヒットは小説『The Good Companions(友達座)』(1929年)で、ジェームズ・テイト・ブラック記念賞(James Tait Black Memorial Prize)フィクション部門を受賞し、プリーストリーは全国的な有名人になった。続く『Angel Pavement(天使の舗道)』(1930年)で、成功した小説家の仲間入りを果たした。しかし、何人かの評論家はプリーストリーの作品に対して辛口で、プリーストリーも『スタンブール特急(Stamboul Train)』(1932年)の中で自分を中傷したとしてグレアム・グリーン相手に法的措置を講じた。 プリーストリーは新しいジャンルに移行し、劇作家としても有名になった。『Dangerous Corner(危険な曲り角)』(1932年)はウェストエンド劇場(West End theatre)の観客を魅了させた。プリーストリーの最も有名な戯曲は『夜の来訪者』(1946年)で、1954年にはアラステア・シム(Alastair Sim)主演で映画化された。プリーストリーの戯曲は小説よりスタイルが多様で、『Dangerous Corner』と『Time and the Conways(時間とコンウェー一家)』(1937年)の筋の一部にはジョン・ウィリアム・ダンの時間理論の影響が見られる。 プリーストリーの作品の多くは政治的な面を持っている。たとえば『危険な来訪者』を含む一連の「時間物(Time Plays)」には社会主義への多くの言及がある。『危険な来訪者』の「警部」はおそらく自分の意見を託せた分身であったと思われる〔An Inspector Calls at dooyoo.co.uk〕。第二次世界大戦中、プリーストリーはBBCでレギュラー司会者を務めた。日曜夜の『Postscript(あとがき) 』は1940年いっぱい、そして1941年に再開され、1600万人の聴取者がいて、それを超える人気があったのはチャーチルしかいなかった。しかし、あまりに左翼的すぎるというクレームの結果、降ろされてしまった。プリーストリーは1941コミッティー(1941 Committee)の議長を務め、1942年には社会主義の社会福祉党(Common Wealth Party)の共同創立者となった。ラジオの政治的内容と、戦後のこれまでと異なる新しいイングランドへのプリーストリーの夢は、当時の政策に影響を与え、1945年の総選挙(United Kingdom general election, 1945)での労働党の地滑り的勝利を助けた。しかし、プリーストリー本人は国家も信条も信じていなかった。 1958年には核兵器廃絶運動(Campaign for Nuclear Disarmament)の設立メンバーとなり、1977年にはメリット勲章を受けた。 プリーストリーは3度結婚した。最初の妻はパット・テンピストで、1921年に結婚し、二女をもうけた。二度目の妻はジェーン・ウィンダム=ルイスで、1926年9月に結婚し、一男二女をもうけた。1953年にジェーンと離婚し、『ドラゴンの口』の共作者ジャケッタ・ホークス(Jacquetta Hawkes)と三度目の結婚をした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「J・B・プリーストリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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